Kan-Kan の雑記帳


2001年10月31日

最近読んだ本

かるく一杯    田辺聖子

 いろんな作家が老いを語っているけれど、(最近では佐藤愛子さん、山口瞳さん、遠藤周作さん、山田風太郎さん…男3人は亡くなった)田辺さんがどう老いてゆき、それをどう捉えて表現しはるか、それは私にとってすごい関心事。ご主人は今、車椅子の生活。そんなことには全然触れておられないが…。

漢文名作選  田部井文雄・高木重俊著

 秋の夜にこんな本もいい。背筋が伸びて来る感じがします。すばらしい詩人たちが生きて死んでいったということを実感。高校時代以来の漢詩もあって、年取って読むと昔と全然違った感慨があります。

いきなりハッピー     石川三千花

 この人知らなかった。イラストも描いて、映画評もして…。その独断と思い込みの激しさ、好き嫌いがはっきりしている・・はやり中野翠さんのお友達だった。俳優を並べて論じる視点は面白い。「いい人の鈍感さって、処置無しだ」と言い捨てる彼女の感性を今は買おう。

自由の森で大学ごっこ   筑紫哲也ほか

 これがおもろい。筑紫さんの故郷、大分県日田市での彼がプロデュースする市民講座、その講師陣の豪華な顔ぶれ。宮本亜門も岸田今日子も宮崎駿も永六輔もそれぞれめちゃおもろい話を展開する。笑いながら、泣きながら一気に読んでしまいました。

2001年10月23日

もっと京都 13

 昔からの別荘地、岡崎のあたりには明治の名庭が多く、ほとんどは個人の持ち物で公開されていない。最近、諸処の事情から少しづつ開かれてきた流れの中に今回の「對龍山荘」(たいりゅうさんそう)の初公開がありました。明治、薩摩の伊集院家の別荘から、人手を経て、京を代表する呉服屋「市田家」(着付けの市田さんとは無縁と強調していた)の所有となり、その接待用に用いられてきた。いわば、知る人はよく知っていたのです。

 本来隣接する南禅寺の塔頭「金地院」(こんちいん)の一部であったといわれるだけに見事な古木が多い。2000坪というけれど、もっと広く感じる。庭に入って、まず池が広がり、その正面中央に瀧があるのが目に入ります。高くはないが水量は豊か。琵琶湖疎水がすぐ側を流れているからです。

2001年10月21日

ゴーゴーバッファローズ


 日本シリーズ第2戦。今年の大阪ドーム、4回目の観戦(これまで全勝)は無理して手に入れたプラチナチケット。もちろん超満員。例によって、ドーム9階の三田屋で地ビール、ジョッキ7杯(ラッキーナンバー)飲んで、繰り出す。

 また例によって、拙攻、おまけにイージーに点を与えていらいらする展開。ヤクルト藤井(愛媛出身、我が高校の後輩)の力投もあり、中盤で一方的展開。同行の友人は諦め顔で、メガホン(12年前の大きなヤツ)まで仕舞い込んでふてくされている。それをそばから引っ張り出して、なだめすかして応援を続ける。

 いきなりノリ(中村選手)の反撃のホームラン。そして、水口(愛媛出身、奥さんは長野高校の卒業生、僕も教えたことあり。トヨちゃんが担任やった)の意外な(失礼)同点3ラン、極めつけは8回裏のローズの期待に応えての勝ち越し3ラン。もう内、外野大騒ぎ、だれこれかまわず抱き合い、握手。9回は大塚が締めて、大満足の逆転勝ちでした。

 でも、4時間余の疲れた試合。家にたどり着いたら11時半を過ぎていました。そして、ファンはみんな感じているが、これで波に乗れるかというと、安心できないのが我がチーム。目は離せません。

 一応、第7戦のチケットは手配してあるのですが・・・。

2001年10月20日

 秋晴れのノーマイカーデー。自転車で出勤。約50分。朝の大和川沿いも気持ちいいが、帰り道が楽しい。藤井寺、城山古墳の周りは一面のコスモス畑。風に揺れて美しい。

 大和高田線の近くに「ゆめいろミュージアム」を発見。噂に聞いていたが、今日まで場所がわからなかった。自転車なればこそ。古い民家を改築して、というよりそのまま活かした美術館というより画廊。ものすごい大きな梁があり、天井も高くて重厚だけど、壁の白、照明器具も木の色に合せて塗ってあったりしてセンスがよく、モダンなイメージ。ちょうど陶器のグループ展が開催中。無料。いや、入ったタイミングがよくて、お茶とシュークリ−ムをごちそうになる。ラッキー!。裏庭には小さなホールも。図々しくあちこち見せていただく。近々インド舞踊の公演があるとか。

 11月に「灯かりの展示」があって(もちろん夜)、酒盛りもあるらしい。もちろん話に乗りました。いいとこみつけた。楽しみ。また自転車で通おう。ダイエットにもなるし(笑)。

2001年10月19日

こんな夢をみた

 どこからか届いた手紙。明日の夜にそちらに着くと。悪い知らせと分かっている。逃げようと思うのになぜか逃げられない。だんだん時刻が迫ってきて、どこそこまで来たと連絡が入る。地図に印を入れる。戸締まりをして、家族で固まって・・・。でも一方、家には花などがどこからか運び込まれて・・・いよいよ夜になる。

 戸締まりをもう一度見に行って、座敷(いつのまにか故郷の家に変わっている)に引き返すと、家族も誰もいない。誰かが玄関を開けて入ってくるが姿が見えない。座敷の中の花に埋もれた自分の上になにかが覆い被さってくる。苦しい。咄嗟に、なぜかお経を必死で唱えはじめる。その自分の声で目が覚めた。

 あれは「死」だったのだろうか・・・。久々の怖い夢だった。

2001年10月16日

 大阪市内うつぼ公園(地下鉄本町)で開幕した「花と彫刻展」へ。同僚の美術教師も出品しています。うっそうと茂った木々の中に作品を配置、その周りをたくさんの花で飾るー花はポインセチア、サルビア他、大量ースポンサーは大阪市ー1000万出したとか・・・さすが府より気前(景気)がいい!(ホンマカ?)木立の中のがいいけれど、広場もまた。咲きそろった薔薇の香りに咽るよう。

 楽しみはクラブハウスで開かれていた開幕パーティ。無料でしっかりビールもいただく。それにしても、彫刻家って、個性的な美術家達のなかでも、さらに個性的。ファッションを見ているだけでおもしろい。エプロン姿でビールを注いでくれていた人(店の人かと思った)が、堺の有名な女流彫刻家だったりして・・・。11月まで開かれています。

2001年10月15日

おいしいもん食べたい


 友人と天王寺新都ホテルの地下「たちばな」へ。道頓堀、松竹座の地下にもある自然食を謳いにした店。地ビールもあります。ぬる燗の酒と、思い切って松茸を注文(1200円)。小さな卓上コンロが出てきて、よしよしと見ていると、今度は鉄板が出てくる。肉じゃないんだけどと思いつつ焼き始めても、いまいち強くない火になかなか芳ばしくは焼けない。これでいいの?となんども問いつつ、いいんですと言われ、結局それほど熱くない、ちょっとしなびた松茸を手で裂いて、香りだけ味わって食べたけど・・・。

 あれでよかったのだろうか?網で焼いたほうがいいのでは。それとも鉄板をある程度暖めてくるべきじゃなかったのか・・・。それを思うと眠れません(笑)。

2001年10月14日

 テニス4市町大会に出場。4市町は太子、富田林、河南、千早赤阪。8月の別の大会で、ミスを連発、悔いの残る試合をしていたので、今回は期するものがありました。前日に2時間練習。当日、朝も早目に行ってサーブを練習しました。

 爽やかな秋空にも恵まれました。開会式直後、いきなり第1試合だったのですが、第1ゲームを私のサーブ4本でキープ。快調の出足でした。3―3まで競り合って、結局突き放されたのですが、互いにいいプレーが続出して、満足感の残ったゲームでした。課題(フォアハンド、セカンドサーブ)もはっきり見えたし、現時点での自分の力を出し切ったので悔いはありません。

 それにしても、自分にプレッシャーを掛け続け、その中で力を発揮してゆくイチロー選手はすごいですね。近鉄の選手にも頑張ってほしいものです。21日に大阪ドームへ応援に行くつもりです。

2001年10月9日

四国便り

 収穫高訂正。普通米が450キロ、餅米は未確認(今、乾かしているところ)。昨年は収穫前にイノシシに田を荒らされ、300キロ余りだったことを思えば、豊作みたい。ま、無事に終わってよかった。

 実家の周りは秋咲きの薔薇や桔梗が中心で、朝顔(紺が強い)や、ハイビスカス、炎樹も残っている。それと田舎独特のガンガン草というピンクの4弁の野草が美しい。薔薇の木の根本に薄い黄色の花が・・・。これなんだっけ?茗荷でしょうがと母。めちゃたくさんあるのに気がつかなかった。さっそく掘り出して土産用にする。裏庭のレモンも緑濃くなってこれも数十個ゲット。サツマイモは出発直前に二畝掘り返す。柿も採りに行く。帰阪準備は着々。

 今回の土産のメインは葡萄。父が孫の為にと10年前に4本植えたのが大きくなりすぎて、この手入れも大変。袋をかぶせ、カラス対策の網を張り・・・。その結果、消毒は行き届いていないかわり、甘い数百房の葡萄が見事になって・・・腐りつつある(笑)。これも必死に収穫。そして、弟が地酒を用意してくれている。流石。

 フェリーに乗れないんじゃないかと思うぐらい土産を積んで、8日の夜に出発。フェリーの部屋に着き、毛布をゲット、そのあと、風呂、レストランと御定まりのコース。例のシェフがにこやかに会釈してくれる。今度の差し入れは・・・なんと、エビフライ、白身魚のフライ、スパゲッティ、ポテト・・おいおいBランチのおかずでは・・・せっかくだから全部いただいたけど、夜の11時過ぎの腹にはもたれます(笑)。でも、なんでやろ、あの親切は?

 9日朝、5時15分神戸着。帰宅6時15分。荷物を8割降ろして即、学校へ。葡萄をあちこちでばらまく。それにしても、胃がもたれて、眠くて・・・でもがんばって・・・夜はテニススクールへ。これって体によくないかも(笑)。かなりハードな帰省ではありました。ただ、親が元気な間に帰ってやりたいと思うのでこれはこれでいいのだと・・・。

2001年10月8日

四国便り


 稲刈りはまず餅米(もちごめ)から。機械が刈ってくれるので周辺部を手でまず刈っておく。そのあと稲木(いなき)を組み立てて、稲束を掛けて行く。これが案外難しい。束を七三に分けて交互に振り分け、日あたりをよくする。父が孫(うちの息子達)に嬉々として教えている。風で倒れぬよう、イノシシに倒されぬよう、入念に。約20日乾かす予定。台風が来なければいいが・・・。掛けた後は落ち穂拾い。

 夜は星月夜を眺める暇もなく飲んで寝てしまう。夜中に喉が渇いて目が覚める。井戸水がおいしい。虫の音が響く。夜風が寒い。息子達はずっと起きて、おばあちゃんのコレクションのビッグコミックオリジナルを読み倒している。

 稲刈りの最後は普通米。これは機械が一気に脱穀までやってくれて、あとはモミを乾燥室で乾かし、2日で新米が誕生する仕掛け。稲木は不要。機械はレンタルで人に頼むのだが1反1万円の手数料は、農家の現状を考えれば安いというべきなのだろうと思う。普通米はかなり広い田んぼなので、機械が入れるように周辺を刈るだけでも大変。こちらは昔取ったなんとかでこなしてゆくが、初体験の息子達は戸惑っている様子。

 彼方で刈っていた息子Bが「蜘蛛がばったを搦めて食べている」と叫ぶ。「良い機会だ、しっかり観察しろ」と叫び返す。今度は息子Aが「まむしみたいな蛇がいる」と叫ぶ。「それはかまっちゃいけない、逃げろ」と叫び返す。今の時期のまむしは飛びついてくる、恐ろしい。あれこれといそがしい。

 できあがった新米は一袋30キロ。これが重い。以前は一俵(60キロ)を持ったのだから、昔の人は強い!今、30キロでフーフー。息子2人に任せる。さすが若い!軽々と持つ。初めて息子達を見直す。自分の年を感じる。今年の収穫は150キロ。30キロはそのまま頂戴してうちの車に。夕焼けが美しい。今年は赤とんぼが少ないみたい。

2001年10月7日

 四国に帰ってきています。5日の夜にフェリーに乗り、6日の早朝に着きました。寝待ち月はフェリーの大浴場から眺める。

 その後、満員のレストランの隅ででビールを飲んでいると、餃子の差し入れが・・・。あれっと思って見るとシェフが笑っている。わけわからずお礼に行くと、おいしそうに飲んで居られたので差し上げます、残り物ですがどうぞ、内緒ですよということ。

 のっけからええ旅の予感。

2001年10月4日

 いつのまにか「居待ち月(18夜)」に。今年の中秋名月(10月1日)は友人と2人、6時半頃から、太子温泉の露天風呂で月の出を待ち(山際なのでなかなか出ない)、そのあと、推古天皇陵の近くの小さな古墳の上で、ビール片手に、弁当を食べつつ10時過ぎまで雲に見え隠れする月を眺めてしゃべり倒し・・・。刻々変わる月の雲の風情が素敵で、近年の中では充実した月見でした。

 十六夜(いざよい)は一転して雲一つない月夜でしたね。これもまたをかし。

 明日の晩、出航。四国へ稲刈りに帰省します。「寝待ち月」はフェリーの大浴場から眺めることにしましょう。晴れたらいいけど・・・。

2001年10月1日

 ニューヨークとおぼしき摩天楼を見下ろすビルの屋上に立つ若者。記念写真らしい。よく見るとその左下に直進してくる飛行機の姿が…。こんな映像が友人からメールで送られてきました。アメリカから来たものだそうです。考えてみれば巧妙な合成写真とわかるのですが、一瞬ドキッとします。こんな悪趣味も生んでいるのですね。着々と進むリベンジという名目の戦争準備…アフガンの難民キャンプでは飢えた子供たちが…。これから寒さに向かうのに…。

往く人来る人

トロイ・ドナヒュー

 小学校時代、本屋で見た映画雑誌ではじめて憧れた外国人のスター。長身、ハンサム、ブロンド、弟にこれから兄ちゃんをトロイドナヒューと呼べと命じ、素直な弟が回らぬ舌でそう呼んでくれた。あれから、この弟を裏切ってはいけないと心に誓ってきた(笑)、その根元の人。「避暑地の出来事」などに主演、青春スターとして一時代を築いたが、やがて凋落、一時はホームレスになっていたという噂も。最近端役でドラマなどにも出ていたが、死因も明らかでない。なにやら寂しいニュースです。

長嶋監督

 ある時はヒーロー、ある時は中高年のアイドル、ある時はマスコミのおもちゃ…。これだけ愛されるのはなぜ?小学校時代の雑誌の付録のカルタ…「ー長嶋はビフテキ食べてホームラン」、そして学生時代、後楽園球場のジャンボスタンド(知らない人もいるでしょう)で長嶋選手を見た(観客は試合とは別に長嶋選手の一挙手一頭足を追っていた)人間としても、長年解けない謎です。やはりあの天真爛漫の笑顔、明るさ?プレッシャーを感じそうもない感性と人柄は、それに押しつぶされそうな現代人のオアシスだったのでしょうか?

古今亭志ん朝

 驚きました。62歳の若さで。これから円熟というその前での死は「悔しい」という思いをまず抱かせます。踊りで鍛えた動きの美しさ、すっきりとして明晰な語り口…。もっと、見て聞いておけば良かった。こんな思いを抱かせる人は先代の団十郎以来でしょうか…。

畑山博

 高校中退後、13年の旋盤工生活を経て芥川賞をつかむ。固定ファンを持つ地道な作家だったのに、数年前に引退。三浦半島の森に動物達と住む。死は肝不全。66才。奥さんへの遺書に「僕は星の宿箱船にいる。お母さんや動物達とも一緒だ。かわいいあばあちゃんになってからおいで」


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