Kan-Kan の雑記帳


2005年8月28日

 家族葬に参列した11名の内、喪服に、素人目にも高価とわかる真珠のネックレスをした老婦人二人。これが前日述べた父の生家の未亡人85歳と、父の唯一の従姉妹Uさん80歳。(当日来こられなかった103歳の生家の大おばあちゃんを入れて、私は日頃「三婆」とお呼び申し上げている。)とにかくお元気で声も大きい。Uさんは今も中央卸市場で現役で働いておられる。毎朝三時に起きて、仏壇などを掃除、五時に出勤して昼まで勤務してはるとか。今日もですか?と伺うと、もちろん、とこともなげにおっしゃる。

 何も知らないうちの息子たちに、会食の席で義父の生家のおばあちゃん(85歳)が年代を繰ってくださる。「鳥羽伏見の戦いで敗れたたくさんの人が淀川を落ちてきて、この天神橋から上陸してきてね、親を亡くした子どもをご先祖が何人か引き取って、それからちょっとややこしくなったの・・・」ご自身も300年続いている鳥羽街道の餅屋さんからお嫁に来たんだとか。城南宮の庭で小学校の運動会をしたという。あちこち飛びまくる日本史級の世界の話に息子たちは目を白黒。後で私がレクチャーすることになる。

 息子たちが理解出来なかったのもわかるのは、おばあちゃんの言い回し。「おとうさん」と言う言葉だけで、実父、舅、自分の主人、今回の亡くなった義父のことと四通りあり、その微妙な言い方で聞き分けなければならない。私も疲れました。話は面白かったけれど。

 それにしても、義父の生母の消息を知っているのは、今はこの三婆さまだけ。よほど厳重に口止めされているのか、そこだけ話を微妙に避ける。息子たちの前では訊きにくいから、いつか一周忌の席ででも、訊いてみようかと思います。(それまで生きておってもらわなければ・・・)今更知ってどうなるものでもありませんが、線香の1本でも上げたい気もあります。息子たちには血の繋がった曾ばあちゃんですから・・・。

2005年8月27日

 大塩平八郎が眠る墓の隣にある父の菩提寺とその近辺の地は、80年かかって義父がたどり着いた父祖の地ー故郷だったのです。

 天神橋の北詰の川端に今もあるビルの谷間の木造2階建て(戦前は3階建てだったらしい)が父の産まれた場所。青物商の「ぼん」であった義父の父(私は知らない)が、家付きの看護婦さんと恋に落ち、幼子(義父)を連れて和歌山に出奔、義父は和歌山で成長、東京の大学を経て、和歌山で高校教員として過ごし、親を見送り、退職後、平成元年に和歌山を引き払って、私達の近くのマンションに越して来ました。義父の生家は、家業は番頭さんが引き継ぎ、家名と家建物は養子さんを迎えて繋いだものの、養子さんもその息子さんも亡くなり、今は養子さんの未亡人(103歳)とその息子さんの未亡人(85歳)が家を守っておられます。

 義父は退職してのち、長年途切れていた生家との関係回復を図り、菩提寺にも何度も足を運び(寄付もし)、やっとつながりを取り戻し、菩提寺の先祖の墓の近くに自分の墓も建てました。この頃から義父も少し柔和になったように思います。でも、幾度足を運んで訊ねても生母の行方だけはわからず、教えてもらえず、とうとう生みの母の名前も顔も墓(おそらく生きてはおられまい)も知らぬまま亡くなったのです。それが唯一の心残りだったと思われます。

2005年8月26日

家族葬

 義父の遺志とはいえ、これって結構気を遣って難しいということを実感しました。まず、どこまでが「家族」かということが難しい。義父が言い遺したかたちでも矛盾があり、結局絞って、12名で通夜も葬儀も行い、それ以外の方の出席も香典も辞退したのです。しかし、最近増えてきているとはいえ、慣れない形ですから、香典を返されたのは初めてだという親族もいたりして・・・。


 義父は遺される義母と一人娘である嫁ハンの負担も考えたのでしょう。でも、この形は肉親の縁薄く、友人もいなかった孤高の人、義父のポリシーに近いものだったように思います。確かに葬儀はあれこれ細かいところでめちゃ費用がかかるし、煩わしいこと多し。簡素化は必要で、これからその方向に行くのはいいと思います。私自身、葬儀なんて(もちろん墓も)いらないとずっと思っていたのですが、最近は、友人達に自分の通夜の席で酒をたらふく飲んで欲しいと思ったりするのです。

 それにしても最近の斎場の見事なまでのマニュアル化、機械化。清潔で広々とした無機質な空間で、車の乗り入れから骨上げまで、流れ作業で、スムーズに静粛に、しかも丁寧に、義父は骨にされて行きました。残った骨の処理の説明まで、それはため息のでるような、口を挟む余地のないプロの作業でした。

 田舎の野辺送りがなつかしいなあと誰かがつぶやいていました。

2005年8月24日

 病院の駐車場の車の中で「来て」とケイタイの連絡を受け、雨の中を飛び出して病室へ。エレベーターの前で当直医らしい白衣の人物が待っていたので、隣の階段を駆け上がる。義母が簡易ベッドをあたふたと片付けている。急変したらしい。ベッドの傍には看護士が待機。待つことしばし、先ほどの医師(若い中田英似のしぶい男前)がゆっくり登場。心臓マッサージはしないとあらかじめ確認したあったので、みんな心電図の動きをじっと見守るしかない。血圧が急激に下がり、規則正しかった画面の波がやがて一本の線に。医師が脈と瞳孔を確認して午前4時5分に死亡を確認。やすらかな最期でした。

 息子二人とも臨終に間に合わず。下の息子は勤務中だったので仕方ないとしても、上の息子は自宅で眠り込んでいて、ケイタイや本電話の呼び出しに気づかなかったのでえらい反省しておりました。当然。

 午前5時に、あらかじめ言ってあったので、葬儀社の迎えの車が到着。ストレッチャーに遺体を移すとき、軽かったけれど、すでに硬直が始まっていました。でも、まだ暖かかった。

 本来はこの日の夜に通夜ということなのでしょうが、「友引」だったので、この夜は仮通夜。義父が生前指示していた通り、大阪市内にある菩提寺の一室でその夜を明かす。ろうそくを灯し、線香をくゆらせ、定期的に遺体の唇を水に濡らした葉で湿す。貸布団(人数分より二組少なく注文することを知った)を頼んで家族で交代、といってもみんな疲れていて、ついうとうとして、ろうそくの灯や線香が切れてたことも何度か。ま、義父も許してくれるでしょう。

2005年8月23日

 義父の症状が重くなっていって、こちらは授業が22日から始まって・・いろいろなスケジュールが逼迫してきました。付き添いは二人態勢になり、嫁ハンが出かけた時は、私が付き添い、酸素吸入しているベッドの傍でなりふり構わず、持ち込んだノートパソコンで教材プリントや会議の資料作りをするといった状況も出てきました。

 義父の反応が弱くなってくると、反作用で付き添う義母や嫁ハンの声が大きくなる。両側から「お父さん、がんばって!」と呼びかけ、手足をさすり、肩を揺すぶる。その周りの私は、隣室の病人に迷惑やから、とか、息子は、どちらの眠りでもいいから眠らせてあげたら、とぼそぼそ。やはり男は冷たいのでしょうか・・・。

 基本的に病室内の看護は義母と嫁ハンにほとんど任せ、私は病室外のあれこれを担当したのですが、ここで鍛えられたというより、活きたのが、どこでも寝られて、いつでも起きられる体質。病室の隅の椅子はもちろん、ナースステーション前のソファ、待合室の長椅子、駐車場の車の中・・・短い時間に熟睡して、ケイタイのコールでぱっと起きる・・我ながら便利にできています。


 その夜はすごい雨でした。駐車場の閉め切った車の中は暑くて眠れないらしく、上の息子は歩いて10分の自宅に帰った気配。私は爆睡していました。3時過ぎに目覚め、気になって覗きにゆくと、室外に置かれた計器の血圧計が上が60を切っている。これはあぶないかなと病室を覗くと、病人の右傍の簡易ベッドに義母が、左の椅子に嫁ハンがそれぞれうたた寝したまま、病人の手はしっかり握っている。義父の呼吸はそれほど荒くない。まあ、「両手に花」かいなと、そっと抜け出し、容態を映すモニターがあるナースステーションを伺うと、動きもないので、ひとまず駐車場に引き上げた10分後でした。

2005年8月22日

 ぱたっと蝉が啼き止んで、虫の声に代わり、朝夕の風が涼しげに渡るようになりました。

 義父は看護士さんにも身をゆだねることができず、娘(嫁ハン)にも甘えず、結局すべて義母にかかってきてしまう状態です。オムツの交換などかなり力もいります。義母の体が心配で、義父にも納得してもらって、夜一時、自宅に帰ってもらっても、すぐ携帯で呼び返される有様です。

 嫁ハン曰く、「貴方なら看護士さんにうまく甘えまくるでしょう?」「そんな、その時に僕が甘えるのは君と看護婦長さんだけだよ」と返して、うそつき呼ばわりされました。

 何日か前の夜、電話で呼び出されて、飛んでゆくと、点滴を受けないと言い張ってますと看護士さん。義母が、「今は施餓鬼でお寺は忙しいの、今、死んだらダメ!」と一喝してしぶしぶ点滴を受けるという一幕もありました。

 その後も「もう死にたいから点滴はやめてくれ」と言うことが重なりましたが、次第に声も出なくなってきました。最後に出た声は、義母にアリガトウとかすれ声でささやいた言葉で、それもやっと聞き取れたものでした。 

2005年8月18日

 ややこしい「コスタリカ合意」とやらの選挙区の調整方法が反古になったかと思うと、「刺客」という古い言葉の登場、そして新党結成、もう呆れて面白がって楽しむしかない。したたかな小泉さんの戦略を反対派はもちろん、民主はじめ野党はきちんと迎え撃てるのか・・・。民主政治が成熟できるチャンスなのに、それを活かせるか、国民の意識も問われていますね。

 それにしても新党の平均年齢が70近いのにはがっかり。自分がやらねば、と思うのは責任感の反面、思い上がりがあるのではというのが私の持論です。私の人生のキーワードのひとつは「隠居」。出来れば40代で「若隠居」といきたかったのですが・・・残念!。ちなみに故郷の実家の屋号も「隠居」です。


 オーストラリアを取材した山崎浩一さんのエッセイからー。

 遺伝的な難病を抱えた長男、それを治すには遺伝子の適合する骨髄や臓器を移植するしかない、夫婦は決断する。着床前診断と人工授精によって受精卵を選別し「健康」な二人目の子どもを産み、長男のドナー(臓器提供者)にすることを・・・。

 どちらも耳が聞こえない夫婦。同じ方法で自分達と同じ障害を持つ子を産みたいという。「特定の能力や個性を選別することが許されるなら、不当ではないはず。障害も個性なのだから・・・」

 生まれて来た子どもが自分の出生の秘密を知った時、どう思うのだろうか・・・。

 これは実話。生殖の自己決定と遺伝子操作の先端技術が、人類をこんなところまで連れてきてしまった。だれが答えを出すことが出来るのでしょう。


 目の高さで見える朝日、月の出、そして夕立の動き、雷雨、稲妻の行方、そのあとの虹・・・やはりマンションに越してきてよかったなあと思うことも多いです。先週は三日月と金星のコラボレーションもきれいに見えました。今、満月近い月が光を増しながら上ってゆきます。

 昔、田中絹代監督の「月は上りぬ」という日本映画の佳作がありました。古都奈良を舞台にした品の良い小品で、主人公の二人が電報で恋文のやり取りをする、そこには数字だけがあって、それは万葉集の相聞歌の番号なのです。モノクロですが、奈良ロケも美しく、小学生の時に見て、かっこいいなあと思いました。案外、自分の人生に大きな影響を与えた作品なのかもしれません。

2005年8月17日

 夏の間、めだかの世話を頼まれたのですが、これが結構楽しい仕事。1日に数回餌を撒くだけなのですが、情が沸いて来るのです。おはようと声を掛けて、二つの水槽を叩くと、ぱーっと寄ってくる。大きくなれよと言って(めだかに大きなれよもないかと思うのですが)稚魚と成長魚用(?)2種類の餌を撒く。これで20日余り、実際、特に稚魚が大きくなってきたのです。日向水を作って、細い滝にして注いでやると、喜んで泳ぎ回る。可愛い、健気。めだかマニアの気持ちが少しわかった気がします。

 旧宅に通って掃除すること数回、いくら払っても、拭いても拭いてもきりがないほど。27年間の埃はかなりなものです。前の家の好きだった点、どの部屋も外に面して窓があって(トイレも浴室も)明るかったこと。マンションは家として明るさは前の家の数倍だけれど、構造上トイレなど密室が出来てしまいます。風呂に入りながら隣の家の庭の薔薇を眺めているのが好きでした。昨夕、門灯が自然に切れました。明日、残されたものをすべて処分して、水道も電気も止める予定でした。

 義父はますます弱りながら、危ないと思われた盆を越しました。下血が続いていますが意識はしっかりしています。でも声がだんだん出なくなってきて、耳の少し遠い義母は聞き取れないことが多いようです。嫁ハンが何度も聞き返すと「総て終わりだ」と繰り返していたのだそうです。 

2005年8月13日

 新居は北に応神陵、西に白鳥陵、南に安閑陵と、緑の古墳に囲まれ、東に二上山を望むいわゆる「眺めのいい部屋」なのですが、その毎日間近に眺める二上山の裾野の「屯鶴峰(どんずるぼう)」の地下に、西日本最大、2キロに及ぶ地下壕があったなんて今朝の新聞を読むまで知りませんでした。

 かつて陸軍の司令部があって、今でも京大の防災研究所が一部を使用しているらしい。何度も走っていったり、月見をしたりした奇岩の景勝地なのに。

 戦後60年経ったけれど、まだまだ一般に知られていないことは結構あるのですね。そしてそのまま歴史に埋もれてゆくことも多々あるのかも知れません。

 8月の初め、朝のラジオ番組「鈴木杏樹の゛行ってらっしゃい”」で「原爆の子」の一部をシリーズで朗読していました。あの朝の8時15分に何をしていたか、生き残ったヒロシマの小学生に聞いた記録です。

 「公園で弟と遊んでいました」「お父さんが会社に行かれるのをお見送りして、そのまま家の前の道で遊んでいました」「朝食を済ませて、お母様が手紙を書いておられるそばで夏休みの宿題をしていました」(きちんと敬語を遣っている)「お寺に行って勉強をしていました」(私も子どもの頃お寺に集まって勉強した記憶があります)・・・延々と淡々と語られるあの日の事実の重さが、その直後の悲劇を語らない分、ズンと胸に迫って、この子達のその後の人生の苦難を思うと、毎朝聴きながら涙が止まりませんでした。

 あの戦争末期の厳しい戦況下でも、市井の平凡で、ささやかで穏やかな営みは繰り返されていたのです。それを一瞬で蹂躙した「ピカ」でした。

 世界唯一の被爆国です。核の恐怖と悲惨さをもっと声高に叫ぶべきだと思うのです。6カ国会議でもなにを遠慮しているのでしょう。

2005年8月12日

 義父の看病、引越しなどで、家族(息子たちは別)はみんな減量に成功。義母は70を私は80を切る。元が元やから変わらんわと、息子たちに憎まれ口を叩かれつつ、私は始終体重計に乗り、義母は昔の服が着られたと喜んでいます。

 引越しのポイントは物を捨てる事だといいます。がんばって捨てようねという嫁ハンが一番、服を捨てられない。いつか着られる!その「いつか」はいつ来るんや?といつもの応酬が続いていましたが、「いつか」が来ることもあるのですね。

 7月29日、次男の警察学校の卒業式に出席しました。幼稚園の時は行ったけれど、二人の息子の、小中高大の卒業式には一度も行ったことがなかったのです。入院中の義父、看病の義母は残念だったけれど、四国から84才の父も駆けつけ、私も長男も年休を取って、嫁ハンを入れて4人という一家の大イベント(?)に。

 今はもう少なくなった、厳粛できびきびした動きの式が新鮮でした。バックを勤めるのは、あの府警吹奏楽団、めちゃレベルの高い演奏です。

 そしてハイライトは式後のグランドでの分列行進。炎天下で小一時間待機していた在校生たちを含む1000名近い若者たち、黒い制帽、青い半そで、紺のズボン、陽に焼けた腕、白い手袋が、あの懐かしいエルガーの「旧友」のマーチと共に一斉に動き出す。長い手足が揃い、白い手袋が肩先まで上がって美しい。行進は軍事教練を思い出すからいや、と言っていた義母の気持ちもわかるけれど、だらだら行進を見慣れてきた目には、めちゃくちゃ新鮮で、そう、あのタカラヅカの新入生のラインダンスを見るような感動。みな健気やなあ、一生懸命練習したんやろなあ、このメンバーで歩くのも今日が最後やもんなどと思っているうち、涙ぐんでしまいました。

 軍隊経験もある父ーみな腰がまだ据わっていない。行進は50点!などと言いつつご満悦の表情で次男と写真に収まっていました。

 嫁ハン・・・ブラスバンドがすばらしかった。「蛍の光」で泣いたわ、ともと関学吹奏楽部員(大阪府警吹奏楽団とは何度も共演したとのこと)らしい感想。

 長男は・・うーん、ぎりぎりやなあ。でも、面白かった、と言い残してそのまま休日出勤の職場へ。

 辞めて行った生徒も多くいたようです。息子もいろいろ悩んでいました。九州出身の人も多く、遠路駆けつけた家族は殊に感激の面持ち。23歳から30歳まで。すでに子持ちの卒業生もいるそうです。みんな泣いていました。式後、即、迎えの車で府内の警察各所に配属され、息子は大阪市内へ。これから彼らの人生、本番です。 

2005年8月11日

 最新の癌治療というのはすごいものです。義父の症状は末期でも、痛みはなく、薬のせいか、意識の混濁がたまにあって、わけのわからないことを言ったりしますが、ほとんど意識は正常。それもすべて点滴によるので、こういう風に衰えてゆけるのもいいなあなどと思ったりします。

 ただ口からの栄養摂取がほとんどできなくなって来たので、その分、点滴の本数を増やしてゆくしかないのですが、本人がそれを拒否しているので、大渦潮に出会ったように、ゆるやかに、死に飲み込まれてゆくしかないようです。

 それにしても、点滴のない時代なら、枯死(餓死)してゆくしかなかったのに、今は薬でかなり延命できます。それをどこで折り合いをつけるのか・・・。点滴に利尿剤が入っているので、排尿が多く、パンパースから溢れてしょっちゅうシーツを濡らすけれど、尿道に管を入れる導尿はかわいそうだから避けたい、話せなくなるから喉の切開は避けたい、というのが現時点の家族(義母、嫁ハン、私)の共通の思いであり、医師に伝えている点です。

2005年8月10日

 やっと引越しが終わりました。いや、まだ終わったと言える状況ではありません。いっぱい、書きたいことがありますが、ぼちぼちと。

 入院中の義父は、いよいよ末期を迎えつつあります。ひとひとりを見送るのは大変なことだと痛感しています。

 そして、いつのまにか立秋を過ぎ、綿は花を開きつつ更に伸び、コスモスの茎も伸長してきました。政局もペナントも世界陸上も熱いけれど、まず、自分の目の前のやるべきことをクリアーしなければと焦りつつ、本も読めない夏が終わって行きます。



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