Kan-Kan の雑記帳


2005年9月30日

 ホテルに勤めている上の息子の同僚の話です。息子と同期で、息子から見ても優秀な人材だそう。上役からの期待も大きく、その分きびしく指導されることもあったらしい。

 先日、その彼がマネージャーに注意され「もう帰ってもいい」と言われてそのまま帰ってしまい、そのまま出勤せず、後日、制服と辞職願いが届けられたらしい。息子は唖然、呆然。

 そんなこともあるんだ。周囲の思惑と本人の意識はまた違っていたのでしょう。デリケートで傷つきやすい、今時の若い人を育てる難しさを感じますが、なんや、もったいないような話でもあります。ぼーっとして、気のつかない息子にじれったい思いをすることも多いですが、それがええ点でももあるのかなあと思う親バカです。

 阪神優勝で、市内の警察勤務の下の息子は、29日、やはり帰ってこられませんでした。道頓堀付近を必死で警備していたのだろうな。交番が襲われて、ガラスが破られたという報道に、テレビに向かって「そんなやつらは撃ち殺せ!」といきりたっているバカな父親です(苦笑)。


最近印象に残った言葉

 「世の中に とらおおかみは何ならず 人の口こそ猶まさりけり」

 一番こわいのは人の口。悪意のある、また無責任な言動は昔から人を殺してきたのですね。

2005年9月29日

 大阪市内の署に勤務している息子は、阪神が優勝しないことをひたすら祈っていましたが、その願いも空しく(笑)、今日にもいきそうですね。道頓堀ダイブについてはかなり警戒、警備しているようですが、制止を振り切って、勝手に飛び込んで死ぬやつはしゃあない、ほっときなはれ、と言って、そうはいかんのよ、と息子の顰蹙を買っています。

 私は腹を立てています。楽天の田尾監督解任は許せない。3年計画で気長にチームを育てようと言っていたのは誰だ?詐欺だ、ペテンだ、田尾監督、気の毒。もう、楽天応援せえへんぞ!磯部、岩隈帰っておいで。三木谷オーナーも骨がない!仕方ないから来季はオリックスを応援しようかなと思っています。

 やられました。日曜の朝、顔を洗おうと俯いた途端に腰に稲妻のような衝撃が・・・。そう、魔女の一刺し、久しぶりのぎっくり腰です。もう、歩くこともしんどいし、急にやってくる痛みに対応する術もなし。屈むのが大変で、ズボンはかろうじて履けるのですが、靴下は、無理で、嫁ハンに頼む始末。整骨医でマッサージ、テーピングをしてもらっていますが、当分不自由な日々が続きそう。

 引越しを機会にベッドに変えておいてよかった。でないと起きられません。それと、これまで続いていた胃痛がどこかに飛び去って行きました。新しい苦痛は前の苦痛を駆逐するのでしょうか?これは腰痛の効能なのかなあ。

2005年9月27日

最近知った言葉

 「恋愛ニート」−恋愛を諦めている若者のこと。いるいる。失恋というものが怖いからだというけれど・・。もったいない。

 「ステルス」―レーダーに映らない軍用機のこと、転じて、保守派を装っていて、肝心な時にリベラルな判決を下す裁判官のことをいう。これに泣いたアメリカ大統領が何人もいるというのが面白い。


☆ 「干物女」−恋愛を放棄した若い女性のこと。人気マンガが語源だとか。もったいない。

☆ 「かまやつ女」−ゆるく、がんばらない生活を好む若い女性のこと。でも、「若い」って何才までを言うのかなあ。

☆ 「せどり」―売買の仲介をして手数料を取ること。またはその人。−最近では古本を古本店チェーンで安く手に入れ、ネットで高価転売すること、その人を「セドラー」という。こういう才覚が自分には欠けているのだと自覚しております。自身の引越しで儲ける人もいるんだろうなあ。

最近印象に残った文章

 西本ゆかさんの「夢の仲蔵千本桜」劇評から。

 「常識も分別も、しょせんは世を渡り生きる方便。己が命も顧みぬほど運命の愛に魅入られたなら、心は現世をかなぐりすてて狂気に向かうしかないだろう・・・役者が役者を演じるのは怖い。名優役も大根役も、本来の技量を役柄に合わせてコントロールする度量を量られ、地金が透ける」

 −ぴたっと思っていることを言ってもらうとうれしい。演技の難しさのひとつに、いかに下手に演じるかというのもあると思います。名ダンサーがダンスの初心者を演じているときなどは見ていて逆にハラハラしたりします。


久しぶりのタカラヅカ

 月組公演「JAZZYな妖精たち」

 こちらも偶然、先週見た「シンデレラマン」と同じアイルランド移民の物語。貧しい村の孤児院からニューヨークにやってきた6人の若者はそれぞれ全く異なった人生を歩んでいたが、仲間の一人、パトリックの下院議員立候補を機会に皮肉な巡り合いをすることになる。絵本画家を目指すヒロインはパトリックに惹かれるが白血病に倒れる。ほろ苦い結末だけれど、そこはタカラヅカ、アイルランドの妖精伝説を取り入れ、華やかで、後味のよい仕上がり。これが瀬奈じゅん、彩乃かなみという新トップコンビの大劇場お披露目で、立ち見もでる賑わいでした。

 「REVUE OF DREAMS」

 これが「芝居の月組」かと思うほど烈しいダンスが続くはなやかなレビュー。まるで花組です。瀬奈じゅんは初舞台以来ずっと期待の星で、近年は男役以外にスカーレットやエリザベートという娘役の大役も演じてきました。満を持しての舞台は危なげなく、トップスターのオーラを放っています。若手を束ねるのは霧矢大夢(きりやひろむ)、そつのない働きで次期トップかな。

 金と黒をふんだんに使った舞台は夢のように美しい。ロケット(ラインダンスともいう)は黄色い衣裳でロケットボーイがひとり入るという珍しい形。きれいに脚が上がる。お約束の大階段の男役による黒燕尾の群舞は見事だがテンポが速すぎる。全体にスピード感溢れるレビューでした。満足。

 意外な情報は以前 「来る人」でも触れた月船さららさん、将来のトップといわれた若手の逸材なのに、この公演で退団とのこと。いったい何があったのでしょう。

 公演の余韻に酔いながら、阪急宝塚の駅に着くと、日赤が献血の呼びかけをしている。マイクで 「本日、兵庫県下で内臓移植の手術がありO型の血液が不足しています。O型の方、よろしくお願いします。」という声に足が止まる。事実を確かめる術はないけれど、播津院長兵衛ならぬおせっかいの血が騒いだのです。

 きれいな受付のお嬢さんに200CCと400CCとありますが、今日は400いただいていいですか?と問われ、血は余ってますから、1000でも2000でも採ってください、どうせ、すぐそれくらい飲むんやから、と啖呵を切る。いえ、血とお酒は違うのですよ、とやさしく諭され、おとなしく、400CC採血。手術はうまくいったかしらん?

 道草を食ったので、経路も変更、JRの福知山線に乗る。事故現場はあっという間。でもスピードはかなり控えている様子でした。


大阪ええとこ

 京橋

 きょうばしは、ええとこだっせ、と歌いながら、たそがれの人々がさんざめく路地を探索。バラエティに富んだ飲み屋がいっぱい。こういう時に手ごろな店を見つけるのは得意技。駅からちょっと離れた寿司をメインにしているらしい居酒屋に入り。嫁ハンはチューハイ、私はお湯割り。海ぶどうを初めて食べる。酒のアテとしてはかなりいけます。支払いは二人で4000円。

 ホテル・モントレー・ラ・スール

 ビジネスパークの一角、読売テレビの隣に今月オープンしたばかりのホテル。フロアもエレベーターもピカピカして気持ちいい。ローケーション的には北側なので夜景もイマイチで、大阪城に面するニューオータニには引けをとるけれど、足は便利。大きい割にはこじんまりして、高級ビジネスホテルといった風情。オープニング特別割引で12400円(2人分)。

 モーニングバイキング(1400円)はかなり充実。和食と洋食のテーブルを分けてあるのがいい。食器ももちろん新品。目の前に聳えるビルの合間から大阪城が見える。食後の散歩でこのホテルのコンセプトを理解。ここは結婚式にめちゃ力を入れているんだ。ヨーロッパのチャペルをそのまま模した建物がメイン。バージンロードの脇の椅子の端のカサブランカは造花かと思ったら生花でした。すべて(椅子まで)クリスタルのきれいな式場から、荘厳な和式の式場、表のグリーンに包まれたチャペルまで揃ってすごく充実しているし、センスもいい。

 若い女性に人気があるというのも納得でした。3ヶ月ぶりのホテルツアー。私はアンケート用紙に客室への不満を綴りましたが、嫁ハンは結婚式場見学に大満足の様子でした(今更なんでや?)。

2005年9月26日

 彼岸の一日。嫁ハンが「嵐山音楽祭」とやらに出演するというので、仕方なしに私が嫁ハンちの菩提寺の「施餓鬼」に行くことになる。宗派が違うのでお経やら作法やら微妙に違って面白い。墓参りして花も供える。彼岸だけれど、お参りのない墓も結構あるようです。

 天声人語に都内の墓で、お参りのない、連絡のつかない墓をまとめて処分しつつあるという話が載っていました。大阪市内の寺の墓石にもビニールをかけた連絡文が首輪のように付けられているのを見かけたことがあります。

 ただ、外国人墓地だけは遺そうという動きがあるようで、これはいいことだと思います。異国で果てた先祖をいつか子孫が探しに来られることもあるかもしれません。天声人語氏は斉藤茂吉の歌を引いています。

 並び立つ 墓石のひまに マリガレツという 少女の墓も 心ひきたり

 マルガリータってどんな子だったのでしょう。

2005年9月24日

最近見た映画

「シンデレラマン」

 アポロのカウンターでチケットを買いなにげなく並んだら「「チャーリーとチョコレート工場」の列だったので慌てて並びなおす一幕もあって・・(笑)。でも、こちらも結構な入りでした。観客層は大分(20歳近く)上と見ましたが・・・。

 主演のラッセル・クロー(オバカさん!)がキャンペーン先のニューヨークで暴力事件を起こして、ケチがついたようですが、映画は堂々の仕上がりです。ピークを過ぎて、大恐慌にも遭い、全財産を失ったボクサーが家族(妻と3人の子ども)を食べさせるために、物乞いまでしていたが、友人であるマネージャーの力でカムバックし、ついにそれまでリングで2人も殺したという若い無敵の現チャンピオンに挑むことになる・・・。

 実話を基にしているだけにシンデレラストーリーにも説得力あり。恐慌下での疲弊した国民に夢を与えたヒーローだけれど、家族を愛したひとりの男として等身大に捉えているのがいい。1年特訓を重ねたというラッセル・クローの力演はもちろん、奥さん役のレネー・ゼルウェガーも巧い。すごいのはマネージャー役のポール・ジアマティー、これは名演です。アメリカ映画は大雑把なところもあるけれど、1920年から30年代を表現する時の、衣裳、車のそろえ方はやはりスゴイ。監督のロン・ハワードも丁寧な仕事ぶりで質の高い作品になりました。惜しむらくは、実在の人物だけに善人に描きすぎている点。もう少し負の部分もきっちり描いたら、深みが増したと思います。

 主人公はアイルランド移民。劇中にさりげなく挿入される「ダニーボーイ」のメロデイーが哀切です。

 「ミリオンダラー・ベイビー」はボクシングを素材にした人間ドラマでしたが、これはボクシングをメインにして、それを突き抜けた点で優れていると思います。個人的に好きとは言えないけれど、やはり来年のオスカーダービーの本命になるのでしょうね。

「君に読む物語」

 富田林のスバルホールが月一回行っている映画会。1000円というのがうれしい。

 療養施設で暮らす老女を見舞って一冊のノートの朗読を続ける老人。その語る内容は、1940年に出会った若い二人の恋物語。過去と現在が交錯しつつ、謎解きをしながら映画は進む。話の先も読めるのに、やはり引っ張られてしまうのは脚本のうまさでしょう。貧しい青年と裕福な少女との恋。ひと夏の燃える恋と、人生のたそがれ。


 若い二人を演じる、ライアン・ゴスリングとレーチェル・アクアダムスはこの映画でブレーク。アメリカで大人気のようですが、中年のこちらにはピンときません。青年の生活がしっかり描かれておらず、ヒロインも尻の軽い金持ち娘に見えます。その分、老人役のジェームス・ガーナーとアルツハイマーになっている老女(難しいけどおいしい役)役のジーナ・ローランズはしっかり演じ、描かれて圧巻。特にジーナ・ローランズ(亡き夫、ジョン・カサヴェテス監督の「グロリア」での大暴れはよかった!)は貫禄ですが、この映画の監督が息子のニック・カサヴェテスと聞けば納得の配役、演技でした。

 前述の若い二人の描写にキレがあって、折角の夕陽や、川の流れ、白鳥の群れという美しい情景をもっと活かして、あと15分映画を刈り込んだら(短くしたら)傑作になっていたと思います。

2005年9月23日

 まだまだ落ち着かない新居ですが、引っ越ししたことについて、よく、なぜ今更一戸建てを捨ててマンションに?と訊かれます。

 便利な、日当たりのよい、眺めのよいところに住みたいという思いが第1にありましたが、26年間、蔦も生やし、あちこち触って、一戸建てを堪能したし、子育ても終わったし、その間に一戸建て故に溜まったものを、老年に向かうこの際、整理しておきたいという気持ちが急に沸き起こったのです。

 本は5分の1に、その他の荷物も半分以下にしました。手紙、写真、日記、服など処分したものがほとんどですが、仕舞い込んでいて発見されたものもありました。台所下に眠っていた梅酒は今、おいしく飲んでます。

 マンションは本当にコンパクトで住みやすい。料理を運ぶのも、洗濯物を干すのも取り入れるのも、掃除も楽です。段差があり、階段があった前の家は、若いときにはよかったけれど、足腰の弱って行くこれからはやはりこたえます。

 出かけるのも気楽。あちこち戸締りする手間がいらず、玄関のドアを閉めるだけ。訪問販売が来ないのもいい。

 いわば、一戸建ては「自由詩」で、マンションやアパートは「定型詩」と言えるのではないでしょうか。決められた枠の中でどう生きるか、スペースをどう活かすか結構楽しみなものです。

 ただ、まだ慣れないのがエレベーター。ドアが開いていきなり見知らぬ人が現れるたび、どきっとします。顔見知りが増えればそうでもないのでしょうが・・。先日エレベーター内で手持ち無沙汰なので、隣にいた嫁ハンの胸を指でつついたら、ピシッと叩かれました。指差す先には監視カメラ。そんなのあったことを知らなかった。あれからロビーの女性管理人の目が冷たいと感じるのは、被害妄想でしょうか・・・。


印象に残った文章(920日記)

 「小さな神様」河野美砂子さん(ピアニスト・歌人)のエッセイから

 ベートーベンのピアノトリオ第一番、第二楽章を弾き終えた元イ・ムジチ合奏団のリーダー、当時74歳のピーナ・カルミレッリさんが、ストラディバリを左手に持ったまま、涙ぐんでつぶやく。「なんてきれいな曲なんでしょう。この年齢になるまでこの曲を知らなかったなんて・・・」若かった筆者と夫のチェロ奏者、河野文昭さんはそのピュアな感性に圧倒される。

 年齢を加えるということ。17年後、今年の4月の演奏会で若いころにはわからなかった「ひとつひとつの和音やパッセージに気持ちがついてゆく」という感触を持ったという。

 「鍵盤上の「手」が歌わずにはいられない感じがあり、それを喜ぶ耳と心がある。心が手や音楽に育てられたのだ。技術の問題は、多分、結局は小さい。長い間、音楽と自分の来歴との折り合いを探っていたのだ。年齢を重ねることは音楽家にとってひとつの財産かもしれない。

 最後の部分  「ピ−ナさんの音楽に対するあの混じり気のない気持ちは私の音楽の拠り所となり、今となっては小さな神様みたいにも思われるのだ。亡くなられてもう10年あまり。ピーナさん、私たちのトリオをどこかで聴いていてくれますか。」

2005年9月20日

 退屈かなと思いながら書いた「ふるさとの村の話」に思いの外、反響をいただきました。励みになります。

 帰ることが出来る「ふるさとらしいふるさと」があっていいですね、と言われることが多いのですが、確かにそうですけれど、屈折した思いもあって・・・、そんなこともぼちぼち書いてゆこうとは思います。

 私の場合、長男で家を出ているということには、今でも故郷でかなり風当たりがあります。こちらも、そんな時代じゃないし、第一、田舎には仕事がないと反論もできるけれど、やはり、後ろめたさ、申し訳なさも少しはあります。実家のそばに住んでくれて、なにかと両親の面倒を看てくれている弟夫婦にはいつも感謝していて、せめて、年数回の帰省の時には旅行に行ってもらうようにしてはいるのです。

 今年の前半で若貴の兄弟確執が話題になったとき、もうそれ以上いらんこと言うなよ、とテレビの貴乃花の対してどなっていたのです。私の場合、弟とはすこぶる仲良くやってこれましたが、やはり、先のことは気になります。弟夫婦には子どもがいません。

 数年前に、帰省した時に、父に後のことも考えて、家や土地のこともちゃんとしておいてや。僕はなんにもいらないから、すべて弟に譲ってな、と頼んでおきました。

 先述の若貴のこともあったので、この夏、ちゃんとしてくれた?と尋ねたら、田畑、山、家の土地などは弟の名義にするけれど、弟とも相談して母屋の分の名義はお前にしたよという。なんで、いらんと言ったのに、そんな半端なことしたん?と訊くと、お前が大阪で失敗した時、帰るところがなかったら困るやろ?と言われて絶句しました。

 「失敗」の意味は別にして、考えてもなかった答えでした。親心というものは、まったく・・・。


逝く人

 見川鯛山さん みかわたいざん(医師・作家 心筋梗塞 88才)

 無医村だった那須高原に診療所を開いて50年余。趣味は「鮎釣り、狩猟、スキー、木登り」でその季節は休診にして遊びに行ったという。それって年の半分休診ってこと?最後の著書の最後の文章―「私も八十八の爺になりました。これが最後の本です。見苦しいお芝居の終幕を引かせてください。さようならみなさん、ありがとうございました」


 中北千枝子さん(女優、心筋梗塞、79才)

 黒澤映画やテレビCFでいずれも庶民的なイメージで印象に残りましたが、実は東宝映画会長夫人でもあったのだ。


 ロバート・ワイズさん(映画監督、心臓病、91才)

 「ウエストサイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」この二つのミュージカル映画の傑作を世に送りました。それ以外もいい映画がありますが、なんといってもこの2本。どちらも屋内ロケが基本だったミュージカルを屋外に放り出した意欲作。指を鳴らす音と共に、ソール・バスのシンプルな縦の線が摩天楼に変わる「ウエストサイド」、アルプスを上空から捉えたカメラがぐんぐん降りていって、最後に草原で歌うマリアをとらえる「サウンド・オブ・ミュージック」のそれぞれのオープニングは映画史に残る魅惑に満ちたものでした。


 中内いさおさん(ダイエー創始者、脳梗塞、83才)

 戦争で死線を彷徨った経験から、国家や大企業は信用できないと、自ら事業を興した男が、やがてグループ企業190社、売り上げ5兆円の巨大企業のトップになってしまう。なんともドラマチックなその人生と業績の功罪は、今後とも戦後日本のひとつのシンボルとして語り論じられることでしょう。

2005年9月18日

 「名月の出」をじっくり部屋から眺めることができました。今日は嫁ハンもいないので、ウイスキーのお湯割りで枝豆と冷奴と出し巻きという変なメニューながら、月も肴にちびちび飲んで食べて大満足。その後、息子と月見団子を食べ、あと何年生きられるか、住めるかわからなけれど、こんな月見を続けたいと思ったことでした。

 あ、でも、「更科の月」、「須磨の月」、「松島の月」は見に行きたいなあ、ついでに「赤城山」も、などど思いは急展開し、やはり「そぞろ神」がまだ憑いているんだなあと感じました。死ぬまで落ち着きそうもありません。


故郷の村の話 その3

 「さあちゃんとこ」と「奥」の間に「くにぎ」-どういう字を充てるのか、どういう由来なのかもう知る人もいませんーという屋号の家がありました。50年近く前の話です。

 当時は当たり前でしたが、兄弟の多い家で、賑やかで、蔵もあった立派な造り、庭の松や広い玄関のたたずまいもかすかに憶えています。私はまだ就学前でしたが、遊んでもらったし、私の家の前の小川のほとりを賑やかに、走ったり、ふざけたり、歌ったり、たまに川に嵌ったりしながら通学していた、にいちゃんねえちゃんたちをうらやましく思って見ていたものでした。

 ずっと後で聞いた話ですが、「くにぎ」は戦中に両親を早く亡くして、しっかりした長男が家と兄弟を支えていたのだそうです。その長男にも召集令状が来ました。彼は出征前にうちに来て、祖父に、必ず帰ってくるからそれまで兄弟をよろしくお願いします、といって頭を下げていったそうです。

 南方戦線に征った長男は帰らず、私の記憶にあるころは、祖父はもちろん、村のみんなの援助で、残ったまだ幼い兄弟が学校に通っていたのでしょう。

 それにも限度があり、やがて兄弟はそれぞれ親戚に引き取られて離散。家も蔵も庭もつぶされ、みかん畑となり、私もいつかあの兄ちゃん姉ちゃんたちを忘れていました。

 昨秋、歌仙小学校(村のはずれの我々の母校ー今は廃校になっている)卒業生の古希(70才)の同窓会が町であり、担任であった母も呼ばれて参加したそうです。田舎では還暦や喜寿という節目毎に同窓会があります。その会に「くにぎ」の何番目かの息子さんが初めて参加したのです。

 宇和島からやってきたという彼は、会の最後の挨拶で「連絡してくれる人があって、思い切って参加しました。自分は今、癌で余命も少ないけれど、死ぬ前にみんなにあって、昔遊んでくれたお礼を言いたかった」と述べたそうです。母は「しっかり養生して、また喜寿の会で会いましょう」と言って別れたそうです。

 それからしばらくして母に手紙が来て「もう一度、あの道を、小川伝いに学校まで歩きたい。それだけが今の思いです。」と書いてあったそうです。母はすぐ「帰っていらっしゃい。私が一緒に歩いてあげます。」と返事を送ってけれど、その後連絡はなく、この春訃報が届いたそうです。

 年に2,3回気楽に帰省して、「おいしいとこ取り」している私なんかに、想像もつかない、深い切ない望郷の思いを抱いて、同じ愛媛で50年余生きておられたんでしょう。彼には帰る家が、家族がなかったのです。もう名前もわからないけれど、後のご兄弟の消息も気にはなります。そして、彼の夢見た故郷の村は、今、子どもの声はなく、小川には農薬の影響で魚の影もありません。

2005年9月17日

 雨上がりの夜空に、「待宵の月」が冴えて、祭囃子が響いてきて、爽やかな秋の宵です。

読売夕刊に掲載の「シルバー川柳」に笑いました。

 「年金と 相談をして 義理を欠き」・・・金のかかる葬儀や会合に欠席するのですね。

 「忘れえぬ 人はいるけど 名を忘れ」 ・・・「君の名は」も遥か。

 「持たされた 携帯つまりは 迷子札」 ・・・どこを徘徊しているのかもわかります。

 「年だもの 最後だわねと またハワイ」・・・水着も持ってゆくのでしょうか?

四国の村のお年寄りも結構、海外へ行ってはります。


故郷の村の話、その2

 私の実家のある集落「松尾」の「此ち所」(こちじょ)は、また3地区に分かれ


 うちは「上組」(かみぐみ)-川の上流の地域にあります。

 屋号で言うと、小川のほとりの我が家が「隠居」、1軒下流に「新屋」(しんや)

 我が家の上の家が「上」(うえ)、その隣が「上隣」(かみどなり)

 その上が「的場」(まとば)−向かいの山、「黒岩山」(くろいわさん)に江戸時代にあった

 黒岩城の主の弓の練習場の跡らしい。由緒ある家だったようですが、今は空家です。

 そこから川に下って「水車」(すいしゃ)-川に小さな滝があって、40年前までは水車が回っていた。挽かれた粉のいい匂いを憶えています。好きな場所でした。後に床屋に転職、これもよかったけれど、今はもちろんいずれも無く、小さな橋の向こうの家におばあさんがひとり住んでいるだけ。

 その上が「新宅」(しんたく)、その上が「きよっちゃんとこ」と「さあちゃんとこ」ーこの二軒には屋号がありません。戸主の愛称で呼びます。明治以降の新しい(?)家だからでしょう。

 その上がちょっと空いて、最奥に「奥」(おく)。少し行くと墓地があり、その上が峠で、隣村です。

 屋号で書くと、10軒の家とその周囲の昔の情景が蘇ってきました。


 明日は、「さあちゃんとこ」と「奥」の間にかつてあった家とその家族の話を・・・。

2005年9月16日

 同姓のよしみ(?)で言うわけじゃないけれど、民主党の菅さん、もう、引きなはれ。いまさらしゃしゃり出んと、若いモンに任せたらよろしいやん。小沢さんも、うろちょろせんと、黒幕ならそれらしく、舞台の後ろの方で影だけ感じさせておけばよろし。民主党をだめにした責任を感じて、というより、権力への執着が見えるのがどちらも見苦しい。はやく隠居すればいいのに・・・。出処進退って難しいけど、ホントに大事だなあと思います。

 ところで、外で自分のHPを見る用があって、Yahooで検索したら、いきなり死亡記事が出てきたので、あれ、俺っていつ死んだんだっけ?とビックリ。新潟大のOBの方で8月に亡くなられたらしい。以前に検索した時、南九州大学の教授で出てきたことがあったけれど、同じ方なんだろうか?同姓同名の菅義郎さん、一度、お会いしたかった。

 このHPは息子たちがいつか見ることもあるかと、記録の意味も込めて書いているので、薄れてゆく故郷の記憶も書き留めておきます。なんせ、故郷の村の平均年齢は70歳を越え、村自体がそのうち消えてゆくかもしれないのですから。

 以前書いたように、私の村は山間の小さな盆地で川を挟んで南北に分かれています。私の家は北側の地区で自分の方を「此ち所」(こちじょ)といい、南側は「向かい所」(むかいじょ)という。これはお互いそう呼んでいるので、どこでだれが話しているかで聞き分ける必要あり。屋号もそれぞれの地区に同じ呼び名があって難しい。田舎で暮らすには、屋号、姓名、愛称、家族構成、家々の縁戚関係を把握していなければなりません。たとえば「向かい所の山崎(屋号)の渡部(姓)のさーちゃん(戸主の愛称)とこのちいちゃん(娘さんの愛称)が・・・」という会話がいきなり始まるのです。

 私は「此ち所の隠居(屋号)の菅先生(父もしくは母もしくは祖母のこと)とこのよしろうくん」というわけです。今でも道や畑で「よしろうくん」と呼ばれるとちょっと恥ずかしい。長くなるのでこの項目、明日も続けます。


最近こころにのこった文章(9月16日記)

新聞連載中の「花へんろー第2部」作―早坂暁 から

(時は1933年ー昭和3年、国際連盟を脱退した、全権大使松岡洋右が話題になっているー主人公静子と夫の会話)

「松岡さんは小柄じゃが、外人と堂々と渡り合っている感じで頼もしいぞね」

「男の人と女の人とでは違うんですねぇ」


「そうか、女は松岡さんがきらいか」

「はい」今度は、静子ははっきりと答えた。

「大向こうばかり気にしているような人は、私は嫌いです」―大向こうを唸らせることばかり考えている役者は下の役者だと言っているのだろう。

 小説の舞台がふるさとの隣町(北条町)なので、つい入れ込んでしまいます。NHKのドラマでは桃井かおりさんが静子を演じました。静子は彼女が所有する大正座の役者のことを踏まえて言っているのですが、小泉劇場の役者、観客(大向こう)はどうだったのでしょう。大当たりはしたものの、どこかチグハグ感の残る興行だったように思います。

2005年9月13日

 敬老の日を前に、長寿番付発表される。もう100才と言われても驚かなくなりました。

 ところで99歳(白寿ー百から一を引くから)までは知っていましたが、それ以降は知りませんでした。

 108歳ー茶寿(草冠を十と十、その下を米に見立てて、20+88)

 111歳ー皇寿(白ー99に王・・・一+十+一=12を加えて)

 112歳ー珍寿(これは字の通り、これ以降は毎年祝うのだそうです。納得)

 個人的には喜寿(77歳)あたりでオサラバと行きたいのですが、こればっかりはわかりません。


逝く人

 立花 大亀(大徳寺顧問 急性肺炎 105歳

 義父と一日違いで亡くなられたので、しばらく知りませんでした。最後までドブ掃除や草むしりをし、包装紙やチラシをメモや封筒にしておられたという。

 孤高でなく俗にも通じ、政治家とも積極的に交わった。「従流志不変」(流れに従い、志を変えず)という有名な書とその教えは、異論もあるでしょうが、ひとつの生き方ではあるのでしょう。

2005年9月12日

 今日も夕陽が綺麗でした。なんとも言えない秋の空の雲の美しさ。

 夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く 思えば遠し 故郷の空 嗚呼 吾が父母 如何におわす

 澄み行く水に 秋萩垂れ 珠なす露は 薄に満つ 思えば似たり 故郷の野辺 嗚呼 吾が同胞 誰と遊ぶ   (「故郷の空」)

 懐かしい歌を思い出しました。小学生の頃は歌いつつ「あきはぎたれ」の意味がわからなかったものです。


 「ウォームビズ」はクールビズのような経済効果を呼ぶかなあ・・・。グンゼの新製品「サーモコントロール」、繊細なカプセルの中にパラフィンが入っており、寒いときには熱を出して暖かく、暑いときには熱を奪い涼しくするという。暖房が効いた部屋と冷たい廊下を行き来することになる寒がりの身にはありがたい、肌触りもいいという。これは一度試してみよう。


印象に残った言葉(9月12日記)

 都はるみのインタビュー記事から。

 やっぱり一度歌をやめてよかった。5年半(40歳ころから)の「普通の生活」、「ずーっとこの世界に漬かっていたら、外で何があっても関係ないという人間になっていたわ」。

 今、ツナミ・エイド参加やヒロシマ・ナガサキを歌うなど活動の幅を拡げている。寄り道も道草も足踏みもいいのですね。

2005年9月11日

 選挙権を得て以来30年余、ずっと投票には行ってきました。住所が変わって、投票所も変わりました。午前7時10分、嫁ハンと、歩いて3分の小学校の体育館へ。入り口に赤い(!)二宮金次郎さんの像。なんやろ、あれ。もう、結構人が来ていました。投票率は高くなりそう。

 出口調査に遇ったことが一回あります。私も嫁ハンも断りましたが、興味があって駐車場で振り返って見ると、結構素直に立ち止まって答えている人がいるのですね。嫁ハンにも教えないのに、なんで他所の人に教えなあかんねん。答えない人の分はどうカウント、分析しているのだろう。


 息子たちの投票には関心あり。昨夜、明日の投票どうするねん、行くんやろ?と訊くと、おとうさん何ゆうてんねん、僕ら二人とも明日は勤務日やからとっくに不在者投票したわ。失礼しました。

 予想通りの結果ではありますが、上っ面のわかりやすさに騙されてどうするねん、という感じ。民主党も不甲斐ない。一党(二党?)独裁政治になだれ込んで、怖い時代になりそう。老後対策を自分で真剣に考えなければと思います。


印象に残った言葉(9月11日記)

 「詩に限らず、文学、芸術に関する限り、私たちは楽しさよりも先ず、何かしら<ためになる>ことを追うようだ。楽しむための文学を、たとえば、中間小説、大衆小説などと読んで区別するところにも、自らの手で楽しむことを卑小化する傾向が見られはしないか。感覚の楽しみが精神の豊かさにつながっていないから、楽しさを究極の評価と得ないのだ。楽しむことの出来ぬ精神はひよわだ。楽しむことを許さない文化は未熟だ。」(塩野七生)

 これも同感です。楽しむことは悪だ、罪だ、というような感覚がまだ残っている部分もあります。「教養小説」などという言葉もまだあります。日本人て基本的に真面目なんですね。でも少しずつ成熟してゆくと信じたい・・・。

2005年9月10日

記憶のまか不思議

 いつも思うのですが、記憶は消え去るものではなく、降り積もる時間という雪の中に埋もれてしまうものだと。近年は豪雪で、おまけに認知症という風も吹いて大変。でも、スコップで根気よく掘ると、見つかる、思い出すこともある・・・昔歌った歌が、なにかのきっかけで何十年ぶりに蘇って、すらすら歌えたなんてことも偶にあります。

 一昨日、嫁ハンが今頃になって、大事なCD、カセットが見つからないという。なんでや、前の家は空っぽやし、この家に運ぶものは、ダンボールに全部屋番号に中身を振って、確認したやないかというと、でも、すべて探したけれど、見つからない、きっと、無意識に箱に詰めて、ゴミの方へ廻したんやわという。ゴミは業者に来てもらって、粉砕機付きのトラックでこなごなにしたよ、というと、あーん、長年かかって集めた、もう手に入らない貴重なものも多くあったのに・・・と落ち込んでいる。


 今度は聞いたこちらが落ちつかない。運ぶダンボールと、処分する箱や袋は分けてあったし、処分するものは、ものすごい量だったけれど、最後にも一度確認しながら、目の前で粉砕してもらったのです。

 昨日一日、仕事をしながら、合間にメモしつつ、荷造りから搬出に至る経過を思い出していました。あの部屋から始めて、あそこを掃除して・・・。義父のこともあったので、引越し前後の2週間あまりの記憶はぐちゃぐちゃでしたが、だんだん思い出してきました。「ヘアー」のLPがあったとか、あの武者人形の処分に悩んだとか、ちいさなきっかけから少しずつほぐれて来ます。でも、そこの部分はなかなか出てこない。

 夕方、帰宅途中で閃きました。そうだ、引越し前夜、片付け終わった応接間に嫁ハンが来て、家のあちこちに散らばっていた自分のCDなどをまとめて最後に運ぶから、ここに入れさせてね、と片付けて空っぽになったテレビ横の引き出しに改めて入れていた!それをそのままにしていたのだ。私は運んだものと思い込んでいました。

 即、経路変更して、旧宅に駆けつける。引越し以来、何度も来て掃除もしていたのに、そこだけエアポケットのように抜けていたのです。電気も切っているので、暗い応接間に手探りで入って、引き出しをあけると手ごたえあり。急いで電話して、嫁ハンを迎えに行き、懐中電灯とダンボールを持って引き返す。

 もう諦めていた嫁ハンは狂喜乱舞で、記憶を蘇らせた努力を褒めて、感謝してくれたけれど、私はまた、頭はクラクラ、胃はシクシク痛むし、ぐったり疲れました。なにより、ひと月経っても自分の部屋の整理が出来ていない嫁ハンにげんなり。前の家が解体前でよかった。今夜あたり、ショベルカーがCDを粉砕する夢を見そうです。


最近読んだ本(9月10日記)

 「黄金機関車を狙え」  日下圭介

 歴史ミステリーというより列車強盗を題材にしたアドベンチャーロマンともいえます。昭和4年の11月末、金解禁のため大阪造幣局で造られた3トン半の金貨を東京日本橋の日銀本店まで運ぶ列車が「黄金列車」。当然、金やいろいろの思惑が交錯して、強奪計画も二重三重、多彩な登場人物の魅力を活かしきれなかったうらみは残りますが、最後までC53並みに引っ張ってゆく作者の力業はお見事。楽しませてもらいました。

 ちなみに私は高校1年の間、SLで通学していました。(2年からディーゼルに代わりました)あの動輪の力感、汽笛、煙、トンネル、煤、懐かしい。


逝く人

 佐伯 有清さん(古代史研究者、胃癌、80才)

 有力氏族の系譜集を調べた「新撰姓氏録の研究」で古代史研究に大きな道をつける。法政二高校長、北海道大学教授など、歴任。でも最後まで、研究者であり続けた方のようです。病床での最後の言葉は「質問ありますか」。

2005年9月9日

 朝の街頭にずらり立ち並ぶ候補者とその後援者たち、この場合の後援者はボランティアで賃金はなし。選挙カーでマイクを握り、連呼しているうぐいす嬢(?−男性もいますねー)はアルバイトで、日給は上限1万5千円と定められているそうです。

 学生時代の同級生で、宣伝カーに乗るバイトをしていたやつがいて、保守党の方が日給がいいの、とそちらへ行き、選挙はきっちり革新の候補に投票していたのがいました。にぎやかで、おもしろかったわー、と言っていました。たくましい子やったが、今、どうしているかなあ、元気なおばさんしていると思うけど・・・。


逝く人(9月9日記)

 朝吹登水子さん( 翻訳家、死因不明―老衰?、88才)

 戦前の「ええとこ」のお嬢様。家にイギリス人の家庭教師がいたという。英国留学して帰りに、一家の変わり者、フランス留学中の兄のところに寄ったのが運命の転機。フランスに嵌まってしまう。

 戦争で帰国、しかし戦後がすごい。単身渡仏し、苦労して、オートクチュールデザイナーの資格を得るが、ここでサガンの作品に出会い、これを翻訳したことから、また新しい道に進むことになる。サガンといえばこの人、というイメージがありました。

 喪主がお孫さんの名前になっていたのが気になりました。子供さんは早世されたのでしょうか・・・。


最近印象に残った言葉

 「実像はその人が生まれつきもっていたものに過ぎないが、虚像のほうは、その人の才能と努力と運の結晶と言えないであろうか。その人が創作者ならば、作品である。実を超えうるのは、虚しかない。偉大な虚のみが、現実を越えて生き続けることができるのである。」(塩野七生)

 まったく同感。でも、現実を越える嘘をつくるにはものすごいパワーと知恵を必要とします。 

2005年9月8日

 駅前のロータリーから響いてくる選挙演説、あちこちの道路から候補者名を連呼する宣伝カーの音声。それに交じってツクツクホウシをやっと聞きました。空には四日か五日の月。名月も近づきます。

 新居を選んだポイントのひとつが「古い町中にある」ということ。戦災にも遭わなかったため、竹之内街道沿いの町並みがかなり残っていて、路地が縦横に廻らされ、村育ちの私にはワクワクする世界です。今でもいい意味での寂れた風情があり、歴史的な寺や、明治・大正あたりの洋館もあったりして、「古市」は魅力的な町です。

 銭湯がすぐ近くにあるのもポイント。小さくて、浴槽は二つ、サウナも泡風呂も電気風呂も、湯上りのコーヒー牛乳もない。でも、空いていて、いつ行っても多くて4,5人。ゆったり入って、脱衣場で備え付けのスポーツ新聞を読んで・・・大満足。「古市温泉」が潰れないことを祈る日々です。


こころに残った歌(9月8日記)

 考えて 飲み始めたる 一合の二合の酒の 夏の夕暮れ

 飲ん兵衛の若山牧水の歌ですが、彼は一日3升(!)飲んだという。そんな奴が考えて飲み始めるものか!この歌は私のようなもっと貧しく、謙虚な(!)酒飲みの歌であるはず。作者を知らないほうが、純粋に味わえる作品ってありますね。

2005年9月7日

 台風が来ると聞いて、まず心配したのが前の家のこと。人が住まなくなると一気に朽ちるというので、何度も訪れて掃除などしているのですが、匂いが籠もることもあり、風を入れるため、窓を少し開けておいたのです。

 いつものように「ただいま」と声を掛けて入る。がらんとした各部屋は以前よりはるかに広く感じる。二日こなくてももう塵が積もった感じがする。開いていた隙間を閉めて、鍵を掛ける。なんや寂しい。もうすぐ解体されてしまうのです。

 14号は、風は強かったけれど、休校にもならず、関西地方は無事に通過。惠みの雨をもたらした反面、九州・四国の稲作農家は気の毒です。収穫直前に泥を被ってしまった稲田。それを前にした絶望感、虚脱感、やるせなさ・・・稲作に従事したことがあるだけに、切実にわかるように思います。苦労して、夏を越したこの時期に、台風や猪の害があるのですね。

 台風一過の独特の雲の流れと、青空。その後、見事なオレンジ色の夕焼けを見ました。引っ越してこんな夕景色は初めて。中心に堺市役所のビルを黒く浮かばせて、180度のまばゆい黄色の光の氾濫。これがこのマンションを選んだ眼目のひとつだっただけにやはりうれしい。部屋の窓辺で30分ほど見とれてしまいました。お供はキリンビール「秋味」。選挙の街頭演説、宣伝カーの連呼に混じって、虫の声が湧きあがってきます。

 台風でこれ以上、梨や林檎や柿などが落ちませんように。

2005年9月4日

 2ヶ月ぶりの座禅は、残暑の残る日曜の朝。首筋を汗が伝う。でも、なぜか気持ちよく座れました。朝の「お勤め」は友人でもある住職と本山での修行を終えて昨夏、帰ってきたその息子さん。若々しい声が朝の本堂にこだまする。昨春までは当時94歳の先代のお仕事でした。落ち着いたかすれた声が耳に残っています。世代交代が進んでゆくんだなあと感じます。

 思い出したのは、義父の葬儀。こちらも数年前に先代が亡くなられて、今はまだ30代の若いご住職が導師を勤められる。脇につくのは得度したばかりの小学4年生の息子さん。幼い声の読経も気持ちよく響き、後ろからは見えないけれど、お父さんの目の合図で合わせるらしい、木の柄を重そうに持って、鉢のようなもの(なんていうのかな)をゴーンと響かせる、その仕草が可愛くて、みんな微笑みながらそちらばかり見ていました。

 後で聞くと、義父の生家への月参りもその子が勤めているらしい。二人のおばあちゃんはさぞ歓待していることでしょう。お布施以外にもいろいろ弾んでおられる気配。わかります。菩提寺は安泰とみました。

 嫁ハンが福島県まで歌いに行って留守なので、体調がやや回復した義母を買い物がてら気分転換に、市民広場のバザーに誘う。フリーマーケットが30店ほどのこじんまりとした催し。こんなん、大好きなんです(娘も同じく)。

 そこで見つけた風炉。これ欲しかったのーーー、お父さんに買ってと言っていたのに、買ってもらわないうちに逝ってしまったの、ひとりでゆっくりお茶をいただくのが夢だったのーーー、とえらい執心。でも、せっかく大掃除して、部屋の整理ができたのに、こんなもの・・・と言っても聞かない。

 義母に言わせると、この(釜の)文様に値打ちがある、これは掘り出し物、ほんまかいなと思うけれど、取り合えず値切って、買うことになりました。もちろん重たい荷物は私。義母はえらいご機嫌で、先年フローリングに換えたばかりの部屋に畳を入れるのだと張り切っている。ま、好きにしなはれ、元気が一番。

 重たい釜を運んだ疲れか、午後からのテニスの試合はメロメロの惨敗でした。おまけに雨に降られて、びしょぬれ。ま、こんな時もあるだろうと思いつつ、帰りに風呂屋に行くと、休み。情けない。


逝く人(9月4日記)

 福田和子受刑者(脳梗塞、57才)

 25年前に松山で同僚のホステス殺害、15年近くの逃亡生活の後、福井市内で逮捕される。顔の整形、20以上の偽名、時効直前の逮捕・・・。当然、ドラマになり、大竹しのぶが熱演しました。

 個人的には、居酒屋仲間による情報提供(タレコミ)、それも懸賞金目当てで、逮捕後、それで一揉めしたなんて話で、鼻白んだ思いがあります。なつかしい松山での事件、刑務所はよく傍を通った和歌山、鹿後(シカゴ!)刑務所。なんや、気になる人物でした。

 でも、怪しいと思っても、飲み仲間をチクルかなあ?怪しいと思いつつ、いろんな話を聞くほうが面白い。私の居酒屋仲間にも○リ○事件の「○○○目のおとこ」そっくりの人がいるけれど、知らない顔をしていろいろ話を聞いています。

 あ、容疑者通報は国民の義務でした。下の息子に聞かれたら、また叱られる。今日はこのあたりで・・・。

2005年9月3日

大阪ええとこ

 天六の駅の真上、住まい情報センター8階に出来ている、大阪市立住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」。体育館のような広いスペースに昔の大阪の町並みが再現されて興味深い展示です。イヤホーンガイドを注文すると、米朝さんの声で、味のある細かい説明が聞けます。

 木戸門を入り、風呂屋、建具体屋、小間物屋、呉服屋、本屋、薬屋、集会所、裏長屋、など家、店の造りも丁寧で、凝っている。失われた生活と文化をしみじみ感じます。町並みは、めちゃ火事が多かった為か造作の荒い江戸に比べて、軒の高さをそろえたり、井戸や便所も配慮があって、より細やかな感じがします。天神祭を控えた日という設定で、通りには高張り提灯が立てられ、家の前には家紋を染め抜いた幔幕が張られて華やかです。昔の祭りは今とは格段に高揚感があったことでしょう。

 深川の「大江戸博物館」と似たつくりですが、できればあそこと同じように、照明とホリゾントを使って、一日の明け暮れを30分くらいで演出してほしい。1時間くらいはあっという間に経ってしまう不思議な空間です。是非もいちど、今度はゆっくり一日過ごしたい。

 ちょうどやっていた特別展「大阪近代住宅ものがたり」も貴重なあちこちの邸宅や洋館が見られて、興味深いものでした。生駒山頂に近代都市(山嶺小都市)の計画があったなんて(それもドイツの名建築家ブルーノ・タウトの設計)知らなかった。


七つの子

 新居の周囲にも緑深い古墳があるので、たくさんの鳥が生息していて毎日にぎやかです。でも、カラスはやはり古墳には住んでいなくて、山に帰るのですね。古墳の森の枝先で啼いていたのに、夕暮れなると高く舞い上がって、地上20メートルにある我が家の軒を掠めて、「三つ、四つ、二つ、三つなど」東の二上山の方向を目指して一目散に飛んで行きます。子どもが待っているのでしょうか。まさに「飛び急ぐさへあはれなり」と言いたいところですが、間近かに横から見るカラスの飛行する姿は、バタバタバタと迫力あって、情緒より、ワー、大きいな、スゴイなという感覚です。

 北島三郎さんの「帰ろかな」は好きな曲でした。昔NHKの「夢であいましょう」の今月の歌で歌われた時の印象も強烈です。1番と2番の間奏で「七つの子」のメロディが使われるようになったのはいつからでしょう。うまい編曲だなあと思っていたのですが、また使われなくなりました。著作権とかの問題があるのでしょうか・・・。

2005年9月2日

第51回全関西美術展 大阪市立美術館

 閉幕の日に走りこんで、駆け足で見ました。友人の彫刻家、堀信二の作品は「HER SPACE」。私はシャガールが描く女性に似ているように感じましたが、横向きに宙を泳ぐ女性の形が柔らかで、伸びやか。頭髪が上に伸びているのも面白い。足から進んでいるように見える。最近小さくまとまってきていたようで、物足りない思いがあったのですが、また、拡がりが出てきたようでうれしくなりました。

 いつもは見飛ばす書にひっかかりました。本来の言葉の力と、墨、筆遣い、装丁、落款など見所が多く、難しく(読めないものも多い)つい敬遠してしまうのです。俳句、和歌や漢詩、文章の1節が多いのですが、こんな言葉が目に留まりました。

 「親と一緒にいるだけで徳がある、以前言われていた言葉が、姑を見送った最近になって身に沁みるようだ。わがままな私が緊張感を持って過ごすことが出来たのも、共に過ごしたお陰であると・・・」

 誰の文章か、また書家がそれをどういう思いで選んで書いたのか・・・なにか心に残りました。そして、この書を書いたひとは「わがままな人」ではないだろう、と思わせられる字でした。

 友人に話すと、歌手の湯原昌幸さんの奥さんで元アイドルの荒木由美子さんの本が出典ではないか、ということ。そういえば、介護を綴ったものが話題になった時があったように思います。

2005年9月1日

 本日の読売新聞夕刊7面、広告欄によみうり梅田文化センターの案内があり、嫁ハンが写真入りで載ってます。ご笑覧下さい。

 あれやこれやばたばたしている内に、阪神VS中日は切迫。下の息子は、「阪神が優勝すると道頓堀(息子の署の管轄)の警備が大変だから」というめちゃ利己的な理由で中日を応援しています。私が応援していた楽天はすでに最下位決定。テニス全米オープンも始まりました。

 小泉劇場は夏期興行も終盤。ホリエモンやら田中知事やら役者もさらに揃い、黒幕小沢さんの影もチラホラ、テーマも定まらぬまま話題先行で盛り上がり、客だけ詰め掛けて・・・祭りの後が心配です。郵政も大事やけど、年金問題その他はどうなるんやろ?国民、特に若者の政治に対する関心が高まったなどと評価する向きもあるけれど、どうも上滑りしている感は拭えません。ま、11日には我が家始まって以来の4人揃って、ぞろぞろ投票に行く予定です。息子たちはどこに入れるんやろ?

 「お疲れの出ませんように・・・」今まで何度も口にしてきたけれど、言われる立場になって身に沁みます。いや、若い時は感じなかった疲れがあります。年のせいでしょうか。メリーウイドウ(陽気な未亡人)になるはずだった義母は腰痛と胃痛でダウン、嫁ハンは歯痛、私は吐き気と腹痛、やはり息子たちだけが元気です。

 病院、寺、葬儀社の支払いを終えて、後は7日毎の法要が49日まで。目処が立ってきました。それにしても、喪服(夏物)は貸衣装で正解でした。意外に安い。高かったのは深夜の寝台車8万円。

 享年83歳。思えばいいタイミングで逝かはったと思います。退職20年余で退職金もほぼ遣い、診察、告知から9ヶ月、入院2ヶ月、本人も周囲も、体力、気力、経済力の保てるギリギリのラインでジャンプしはりました。

 あれだけ酒飲んで、肝臓癌は当然でしょうが、さほど苦しまず、安らかに逝けたのは僥倖。飲ん兵衛のはしくれとして、私自身の今後、老後の在り方において、ちょいと希望が持てたように思います。甘いかなあ。 



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