Kan-Kan の雑記帳


2007年3月29日

春の鳶(とび)  寄り別れては  高みつつ

 この春、亡くなった飯田龍太さんの句。鳶は鳴きながら、旋回しながら、高みに上ってゆきます。うららかな春の空です

 桜が一気に開花を始めました。校舎の中庭の桜を通りすがりに見ていると、一時間毎に開いてゆく感じがします。

 年度末の整理を終えたと思ったら、新年度の準備にばたばた。「春休み」という言葉はもう死語です。

 3年間、年次グループ(他の学校では学年という)の代表のような仕事をしてきました。いいスタッフに恵まれて楽やった!と言いつつ、思いつつ、非力な私にはやはりプレッシャーがあったのでしょうか?卒業式後もずっと10日くらいは毎夜、式を控えた夢を見て、あれやこれやと思って、目を覚ましたものでした(苦笑)。

 それでも、最後の時期にスタッフから「菅船長」と呼ばれることがあって、ふと昔の記憶が呼び戻されした。今は廃校になった母校(小学校)にあった銅像、町の駅と海を望む丘にあった銅像・・・双眼鏡を胸に遠くを見ていた・・・学校で「責任感」という言葉と一緒に、そのエピソードを教わった記憶も。確か日露戦争の時に乗っていた船が沈没して、その責任を取って自殺した人。遠戚にあたることは聞いていたけれど・・・。

 先般、帰省したときに父に訊くと、お前は何も知らんのお、とため息まじりに渡された分厚い「菅船長伝」という本を丁重に預かって帰阪しました。

 菅船長頌徳会とかが発行しているもので、見開きに写真東條英機首相の弔問写真とか大阪十合百貨店での遺品展とかある・・・なんやこれ?第2次世界大戦中の出来事でした。どこが日露戦争や?(苦笑)

 開戦直後に商船(長崎丸)でありながら、アメリカ船、ハリソン号を追跡拿捕して海軍大臣より表彰を受け、一躍全国的英雄扱いに。その5ヶ月後、船長として最後の航海の帰途に機雷に触れて船は爆沈、多くの犠牲者を出す。沈み行く船から浮き上がってしまい救助されて、生き残り、今度は一転、卑怯者として世間の指弾を一身に浴びる。本人は粛々と事後処置、葬儀など済ませたあと、昭和17年5月20日、長崎の事務所で切腹自殺。60才。今度はまた一転、愛国者、英雄としてまつりあげられる・・・。

 この経歴は本を読むまでもなく、最近、インターネットの事典で「菅船長」で検索してもすぐにわかったことでした(苦笑)。

 彼は戦後の民主主義の波の中で急速に忘れ去られてゆきます(遠戚に連なる私でさえ知らなかった)。時代に翻弄された人とも見られますが、「伝」を読んでみると、本人は淡々と生きたようにも思います。残された遺書のいくつかを読んで、胸打たれるものがありました。遺族の対応も冷静でした。でも、遺族は密葬にしたかったのに、やがて盛大な町葬になっていってしまう・・・。

 帰省の折、買い物の帰りに寄り道して、40年ぶりに丘の上の菅船長の銅像を訪れました。まだ蕾だった桜の木々に囲まれて、綺麗に整備されていて、ほっとしたような、申し訳ないような気分になりました。町の篤志家によって、守られているのでしょう。

 ただ、個人的には銅像や句碑、歌碑の類はきらいです。ああいうものは遺すものではないというのが持論ですが・・・。

 もうひとつ「船長ラスト」という言葉。かつて日本には「船長は最後まで船に留まるべし(船と運命を共にする)」という規則(!)があったのだそうですが、そのことで沈没の原因解明が十分に出来ない、責任が曖昧になるという面もあったようです。菅船長の事件でその規則が改正されたというのも、今回知りました。

 隣村にあった、私も遊びに行ったことがある菅船長の生家は、今は壊され、畑になって、高い石垣が残るばかりでした。同級生もいた遺族の末裔は村を離れてしまったとのこと。今、どこにいるのでしょう。 

2007年3月25日

 久々の休日の朝、部屋で手紙を書いていると、カ−テンレールの端に掛けてある風鈴が鳴り始める。おや、ガラス戸に隙間があったのか、風が吹き込んだのかなと思って立ち上がると、グラッときました。上階のせいか、南北にゆっくりとした揺れがしばらく続く。

 居間に走り込んで、DVDを観ていた息子にテレビに切り替えさせる。能登半島を中心とする地震と確認。

 家具の据え付けの甘さを再確認。明日にでもつっかい棒等買いに行こう。

 午後は出勤を諦め、やはり今日が最終日の日展に出かける。天王寺市立美術館。これが春の楽しみ。でも、今年は少し小粒の印象でした。洋画の小灘さんの「卑弥呼」はオーラに欠ける感じ。彫刻で入選した知人の播間さんも妙に洗練されてきたなあ。今年も美女なのに、やはり右足の膝から下が男に見えるのはなぜ?

 でも、様々な色と形の洪水。描かれた自然や町、人物の美しさ・・・。いろいろあるけれど、それを支える豊かで平和な社会の存在を感じました。

 描かれた人物は今年は特に女性が多く、強い意志を表す目の輝きが印象的です。男はどれも微妙に屈折している。

 退職したら、秋の上野で、この4倍以上の作品群を一日かけてゆっくり見てみたい。風邪が完治していないので、駆け足で見て、そのまま帰ってきてしまいました。5時前には家にいたのですから、考えたら贅沢な話です。四国の弟や友人に話すとうらやましがられ、叱られるでしょう。

 アベノ駅で号外をもらう。地震で死者一人という報道。春の到来に浮かれてはおられません。

2007年3月24日

 ミキティもマオちゃんもスゴい。10代の女の子といっても、精神的にもすごくタフなんだなあ。

 春場所で羽曳野市内にも相撲部屋の幟がはためいています。

 8日目だったか、たまたま栃東、白鵬戦を観戦しました。若く肌のつやもいい白鵬、くすんだ感じで精彩に欠ける栃東・・・上り坂と停滞している者との残酷な対照でした。その勢いある白鵬を止める朝青龍もスゴイ。母は朝青龍の傲慢さがいやだと言っておりましたが、やはり確かに強いことは強い。

 西武の野球部員への給付問題。出す方も問題ですが、初めは選手の親から相談を持ちかけたとか。それって、あきらかな「たかりの構造」。スポーツの世界のあらゆる面できっちり金銭授受、腐敗の構造が持続しているのですね。いや、腐敗という意識もないのでしょう。

 センバツの春。母校がまた出ている。こちらは意識しなくても周りがあれこれ気を遣って結果を教えてくれる。今日は逆転勝ちしたらしい。また、寄付金要請が来るのでしょう。これもおかしい。父は何万かしたらしいけれど、私はしません。

 でも、センバツの大会歌、いいですねえ。「今ありて」でしたっけ。


逝く人

 飯田龍太さん(俳人、肺炎、86才)

 飯田蛇こつのなんと4男だったのです。兄3人が戦死、病死。しかしきっちり父の後を継いで、見事な世界を構築しました。でも、俳誌「雲母」を900号でぴしゃりと止め、句作も止めたその潔さがいい。葬儀も参列者が花をたむけるだけ。飾りは庭のコブシの花。きれいな生き方でした。

ベティ・ハットンさん(女 優、結腸癌、86才)

 ミュ−ジカル女優。「アニーよ銃をとれ」で当たりました。実はジュディ・ガーランドの病気による代役だったというのは人生の妙を思います。明るくそしてその裏の哀感。なぜか江利チエミさんを思い出します

2007年3月23日

 体調がイマイチだったので、ハードな帰省でした。

 でも、母が病院で診察を受けて納得したので、ひと安心。母にとっては、結果的に3つ目の病院でしたが、最初の病院の見立てと二つ目が食い違っていたので、余計に不安があったのです。

 年齢(86才)相応にあちらこちろいろな症状も出てきていますが、なんとか、米寿の祝いまでは元気で自力で動いていて欲しいものです。ま、動きすぎるのも心配ですが、それだから元気でいられるのだとも思います。家事全般はもちろんこなし、畑へもまだ出ています。

 畑の傍に生えている桃の木の枝を10本ほど持って帰ってきました。これは毎年のことで、楽しみにしてくれている人もいます。今日明日で伊予かんやスダチ、大根、キャベツ、檸檬と一緒に配達。

 寒さがぶり返していた時期に帰省したので、田舎屋独特の寒い思いをしましたが、庭の明正寺桜はすでに散り初め、町で有名な隣村の「金龍寺桜」は3分咲きでした。ソメイヨシノはつぼみほころぶといったところで帰阪。残念でした。

2007年3月18日

 陸上100メートルの世界記録で時速37キロなんですって・・・。

 ポーランドでは日本の事を「サクラ咲く国」といい日本人を「サクラ咲く国の人」というらしい。昔の(今も?)OSKのテーマソングみたいで懐かしくうれしい表現です。

 16日(金)に夕刻まで仕事をばたばた片づけて、夜のフェリーに乗るつもりでした。電話予約も完了していました。ところが夕食済ませたあたりからもう体に力が入らなくて、車を運転して神戸まで走るのが覚束なく感じました。母に電話するとがっかりすると思いためらっていると、電話があって、心配だから絶対来たらアカンという。それで吹っ切れて、フェリー予約を延期して、それから寝ること、寝ること・・・。

 17日夕刻に医者に。症状はインフルエンザですが、熱が低い(37度8分)ですね、といわれて、でも、体が大きいので血が廻りかねていることはありませんか?と問うと、そうかもしれませんねとあっさり答え(「大男総身に知恵が回りかね」という言葉の洒落だったのに・・・)、ほな、しばらく様子をみましょう、と風邪薬を出してくれる。その晩から38度を超えました(笑)。

 また、一日寝て、体の節々が痛くて、再度フェリーを延期。

 そして、本日、めでたく熱も下がって、気力も快復。今からやっと帰省します。明日は代休。明後日一日休暇を取れば、3日、実家で過ごせます。

2007年3月14日

 金曜の卒業式が終わっても落ち着けません。月曜から、卒業出来なかった生徒の履修指導。うちの学校は単位制なので、各自が自分の時間割を組んで申請します。その作業が大変。やっと終わって。卒業生の書類などあれこれやって、ほっとした心と体の隙間に風邪が忍び込んで来ていました。

 昨日から寒気。熱はないのでインフルエンザではないと思います。咳が胸に焼けるように響いて痛いのはいつものこと。今日は時間休をもらって帰って寝ました。とにかく休んで、体調を取り戻したい。

 四国の母も体調が悪いので、金曜の晩からフェリーで帰省する予定です。

2007年3月11日

 久々、気楽な気分で迎えた休日。先日述べた通り、休日は朝寝を止めて、早起きを励行中(いつまで続くか?)。今日は嫁ハンがライブ出演とかで、朝から準備にばたばたしているので、こちらも邪魔しないように6時過ぎから近所を散歩。そのまま駅前のマクドでモーニング。その後、心づもりしていたテニスのレッスン振り替えが出来なかったので、午前中は読書と仕事。そして午後から早速飲み始める。ひとりで一日家にいるなんて何年ぶりでしょう。ええもんです。

 缶ビール1本のつもりが、そのまま焼酎のお湯割り、日本酒のロック、そしてぬる燗へと移ってゆく。あては「シラス」、「豆腐屋ジョニー」、友人が送ってくれた明石、下村商店の「くぎ煮」・・・。それぞれ酒にあって、なかなかいける。気がついたら、久々にベランダに出て、沈む夕陽を眺めながら、2週間前に友人が忘れていったタバコを喫っていました。

 今日は風が強く、いつも霞んでいる六甲の山々もくっきり見える。手前にWTC、そして弁天町の高層ビル、それから右(北側)にアベノ、ナンバ、大阪駅前のビル群が重なり合って続いて見えます。その向こうは箕面の山々が。東に目を転じると、生駒から信貴、二上、葛城、金剛が夕陽を受けて赤く染まっている。南に岩湧山。大阪は緑の山々に囲まれコンパクトで本当にええとこやと思います。

 東京は関東ローム層の上、台地と低地の組み合わせで果てしなく坂がうねってゆき、茫洋としてつかみ所がない感じ。それもスケールが大きくていいのですが、山といえば西方遙かな箱根、富士と、東の果ての筑波山で、身近な感じに乏しく、山育ちの身には頼りなく思ったことでした。

 日没後、河南町の友人が酒を届けてくれる。旅行で和歌山に行って、土産に純米酒を買って来てくれたのです。うーむ、困った。また呑まなければならない・・・(笑)。


「沈黙は金曜日」永 六輔 編   より

 「復讐しようと思ったら、相手を立てて得意の絶頂まで持っていって、それから叩き落さなきゃ意味がありません」

 ワカリマス。やるなら徹底的にやらなきゃあね。○○、見ておれよ!

 「この港から築地に運んで、築地からこの港に戻ってくると、魚も出世して高くなっているんだ。魚は高く売れる港で水揚げして、トラックで夜中走り回っているのよ」

 シェークスピアではありませんが、名前がなんであろうか!ブランド名で振り回されるのもほどほどにしなければあきませんね。ちなみに南河内の山々の杉も最近まで「吉野杉」と言っていたようですが・・・。 

2007年3月10日

 9日の卒業式が無事終了。いろいろ反省点もあるけれど、生徒が予想以上にきちんとやってくれて、後の茶話会も結構盛り上がり、生徒達は校舎を去ってゆきました。

 茶話会の後で、3年付き合った講習参加生徒達10名のうちの男子達が恥ずかしそうに贈ってくれたものは、パンダによるHな図柄がプリントされた徳利とぐい呑み。なんで私がHで酒飲みとわかったのだろう(苦笑)。ほとんどが中学時代、不登校やイジメ被害者で、中学側から、送ったけれど続くだろうかと心配されたメンバーでした。かれらが卒業式前後の準備や片づけ(240個の個人ロッカーの移動など)を登校して自主的に手伝ってくれ、茶話会運営にも参加してくれました。

 単位制高校という人間関係の拘束の緩やかな(学年制のクラスにあたるものがありません)組織だからこそ、残ってこれた生徒達かもしれません。いくつかもらった手紙にもそのような事が書かれていました。単位制は自己管理出来ない今の生徒に無理という声も高いけれど、単位制だから活きた生徒もいたのです。

 進路が未定のまま卒業して行った生徒も多くいます。再び会うこともない生徒もいることでしょう。ちょっと感傷的になりました。

 夜は同僚達が慰労会をしてくれる。参加46名。主賓のはずだったのに、いつの間にか酒を注文したり仕切ったりしている・・・幹事人間の習性は抜けません(苦笑)。

 4日間の禁酒の後だったので、酒がまわること。それに上記の酒器で飲んだので余計です。Hな図柄の酒器は同僚達にも大ウケでした。終電で帰り、最後は近所に住む同僚と駅前の馴染みの店で午前2時まで呑んでいたらしい。

 もちろん二日酔い。今日のテニスはメロメロでした(苦笑)。

 でも頭の中はもう、来週からの、卒業出来なかった生徒の指導のことでいっぱいです。我ながら、貧乏性というか心配性というか・・・。 

2007年3月8日

 今夕7時、残った一人の未納者の授業料が納められました。父親が持って来ました。

 どうやって都合したかは訊けませんでした。

 明日の卒業式には、一昨日の判定会議で卒業を認められた生徒全員が参加出来ます。

2007年3月7日

 卒業の懸かった授業料納入の問題で話し合いの為、今夜7時に来校すると言っていた保護者は、結局来られませんでした。明晩来られるということです。卒業式まであと3日。

 前にこの欄に書いた、東京常盤台の巡査が線路に入った女性を救おうとして亡くなった事件に関して、「菅巡査を殉職させてはいけません!」というありがたいメールをいくつかいただきました。息子にも伝えてやりました。

 確かに殉職を美談にして、喧伝するのは、一歩違うと、愛国主義の強制や自己犠牲の強要につながり、テロ行為にも繋がりかねません。

 自殺を止めるために死ぬのは空しい気もします。でも、同僚の危機を見過ごすことは出来ないと思います。息子にもそれはしてほしくない。寝屋川で卒業生に小学校教諭(姉の同僚のご主人でした)が刺されて死んで一年たちました。私も包丁を振り回すやつがいたら、生徒や同僚の代わりに刺されても仕方ないと思っています。


「沈黙は金曜日」より  永 六輔 編

 「台風は一個二個と数えます」

 「異常気象というのは30年に一回というのを異常といいます」

 今年の暖冬はやはり異常気象?

2007年3月5日

  「おそらく人生最後の公的にはもっとも忙しい1週間」が始まりました。気合いを入れて出勤も早めに臨みましたが、昼頃にはもう疲れがピークに。こういう時は無理しない、ソファで10分昼寝。熟睡して、目覚めたとき、どこにいるかわかりませんでした。午後は元気回復。なんとか月曜を乗り切りました。

 朝の鶯の宿詣では続けています.今朝はきれいな囀りでした。これで13分の7。

 卒業式まであと4日。でも卒業見込みの生徒の中で授業料が未払いの者が、今日2人払って、あと一人というところまで漕ぎ着けました。でもそれは20万を超える額。本人は4年目、もちろん卒業したい。でも、父親には払う気が見えない。辞めたらええとまで言う。担任(うちではチューターといいます)事務長、管理職、と一緒に胃が痛くような交渉。明日の夜も続きます。


「沈黙は金曜日」 から      永 六輔 編

「税金の国ニッポンから罰金の国シンガポールへようこそ」

「禁煙の場所での喫煙、チューインガムの投げ捨て、両方とも罰金は千ドル(約10万円)です。その他、落書き、ツバキ、立小便、なんでも見つかり次第罰金です。だからシンガポールは美しい!」

「麻薬は、売っても、買っても、持っていても、死刑です」

「シンガポールは土も水も外国から買っています。徹底した輸入国家です

 麻薬を持っていても死刑というのがスゴイですね。

2007年3月3日

 休日だけれど、合格者登校日で出勤。朝からまず外国人選抜の生徒の説明会。私が担当したのは中国からの帰国子女。でも、日本語は堪能。なぜ?おじいちゃんがいわゆる第2次大戦の「残留孤児」で、おばあちゃんは中国人、お母さんは混血でお父さんは中国人。家族の会話は中国語。本人は日本人学校。同席した幼い5才の妹も中国語ではしゃいでいる。ヒアリングと手続きに2時間半。神経を遣いました。会議室のあちこちで同じような光景が繰り広げられている。今年は外国人の生徒の国籍は6カ国でした。

 なんとか馴染んで、がんばって欲しいものです。

 午後からの一般の合格者登校はまた大変。

 生徒より、親の質の低下が恐ろしいほどです。説明会で、ガムを噛む、携帯で話す、挨拶もできない、筆記用具を貸しても礼も言えない・・・すべて親です。生徒が大変なのは覚悟しているし、対応出来る自信もあるけれど、最近の保護者の様子、対応を見ていると不安になってきます。もちろんきちんとした保護者もいらしゃるのだけれど・・・。

 最近再婚なども多いので、説明会場には幼い子供が多い。赤ちゃん同伴も多い。子連れ再婚もあるので、4人5人兄弟はざら、8人兄弟もいる。少子高齢化はどこの国の社会の話?

 疲れたけれど、とりあえず切り上げて、仕事を持って、家に帰る。今日は息子Aの誕生日です。28年前の今日、生まれた時、桃の節句、女の子の日だから、オカマになるかも、と言ったら、友人が、いえいえ、オカマの日は4月4日だよ、と教えてくれたのを昨日のことのように憶えています。あの頃からオカマの日はあったのですね。今、息子は立派なメルカマ(メールオカマ)となって、インターネントのチャット上ではどうやら、28才美女、独身で通っているらしい。まったくもう・・・。

 運良く休日が揃ったので、家族4人でワインで乾杯。「俺がAの誕生日の時にはすでにAが生まれていたんだねえ」と軽く嫌みをかます。「行き遅れてスミマセン」とふてぶてしい息子.。

 食事中、四国の母から息子(孫)へお祝いの電話。実は昨日から何時に電話したらいいだろうかと問い合わせの電話も含めて、これが3度目の本番?の電話。可愛くってたまらないのですね。ありがたいことです。

2007年3月2日

映画大好き(3月2日記)

 「ドリームガールズ」

 トニー賞を受賞した舞台のヒットミュージカルの映画化。アフリカ系アメリカ人ミュージシャンのパワーに圧倒される2時間です。かつて、いや今も伝説の人気を誇るシュープリームスとダイアナ・ロスのサクセスストーリーをモデルに、彼女たちを取り巻く人間模様、音楽界の裏事情を描いてゆきます。

 地方の音楽番組のオーデションで敏腕プロデューサーに目を付けられた若い3人の女の子が、そのパワフルな歌唱で人気を掴んでゆくが、同時にテレビに時代に合わせて、リードボーカルの美人じゃない女の子は脇に廻され、泥臭い歌唱は、軽い洗練された歌い方にとって代わられてゆく・・・。

 このミュージカルのポイントはなんと言っても歌。そして衣装。華やかなステージ。主役のプロデューサーのジェレミー・フォックスも、この助演で人気復活のエディ・マーフィーもいいけれど、なんといっても女優陣がすごい。

 新人なので、タイトルバックのキャストランキングは低いけれど、ジェニファー・ハドソン!大熱演で時代に取り残され、孤立してゆく、歌はうまいが不美人のシンガー、エフィを見事に演じきります。アカデミー助演女優賞受賞ですが、主演と言ってもいい。その歌唱には圧倒されますが、ちょっと気圧されする感じも。

 そのエフィに代わってポップスの女王となるヒロインにビヨンセ。美しい、グラマラス、ゴージャス。ジェニファーの存在感に食われている面はありますが、艶やかにダイアナ・ロスを演じられるのはこの人でしょう。(蛇足ながらダイアナ・ロスの25年ぐらい前の日本公演に行きました。ビロードのような滑らかないい声でした)

 ドラマの作りがちょっと弱いのと、いい曲がいっぱいあるのに、柱になる代表曲の選び方、聴かせ方がイマイチなのが残念です。たとえば、「キャッツ」の「メモリー」、「ラ・マンチャの男」の「見果てぬ夢」・・・客が口ずさみながら帰る曲がミュージカルには必要です。この映画の場合、それは「ワン・ナイト・オンリー」なのに、柱はエフィが自分を捨てないでと歌う、すばらしいが難しい歌なのです。

 それもあって、アカデミー賞の歌曲賞部門でノミネート5作品のうち3曲がこの映画からなのに結局受賞できなかったのでしょう。

 でも、音楽と映像のめくるめく洪水に堪能しました。元気づけられる映画です。無理して行ってよかった!


最近読んだ本(3月2日記)

 「あたく史外伝」 小沢昭一

 飄々とした風貌と語り口の中に、反骨精神が息づきます。ひとり芝居でも全国を廻ってはりますが、学校の演劇鑑賞では騒ぐ、寝る生徒相手に苦労してはるらしい。わかります。面白い芝居なのに・・・見ようと思わなければ何も見えない。

 ある時、めちゃ鑑賞態度のよい学校があり、その代表数人が楽屋を訪れた。上機嫌で浴衣姿で歓談し、色紙を書いてやり、送り出すときに「礼宮です」と自己紹介される。そういえば、警備が多かったと気づくが、いまさら態度も変えられない。「母がファンです」と言われ、「あっ、じゃあおっ母さんによろしく!」と言ってしまう。いいなあ。

 大道芸はもちろん、山椒魚が好きで、あちこち全国を探し回る、好奇心旺盛。いつまでも若い所以です。



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