Kan-Kan の雑記帳


2011年9月29日
 
「 予報士に見惚れ 天気はなんだった 」
 
四国柳壇から 丸亀市 国土さん
 
 お天気キャスターには確かに美女が多い。
 
 で、思い出したこと。台湾で台風に襲われ、ホテルに缶詰めになり、テレビばかり見ていた時、画面に天気図が出ますが、その前、ど真ん中にキャスターが登場する。日本なら図の脇(大体右わきですね)に立つ。後ろの肝心の地図も台風の位置も見えない。どきなはれ!と叫んでチャンネルを廻す。でも、どこの局もそうでした。お国柄かな?
 
 
 昨日の夕刊に、琴奨菊の口上の言葉について、私が一昨日HPにアップした文章と同じようなことが書かれていました。偶然です。
 
 訂正です。先日記した記事で、杉浦直樹さんは生涯独身だったと記しましたが、下の記事を発見。訂正します。2度目の結婚だったんだ。 
 
 肺腺がんのため21日に死去したことがサンケイスポーツの報道で明らかになった俳優、杉浦直樹さん(享年79)を看取ったのが、50代の妻、仁美さんだったことが23日、分かった。

 関係者によると、杉浦さんは若いころに1度結婚していたが、その後離婚。長い独身生活の間は都内の一流ホテルで暮らしていたが、数年前、仁美さんとの再婚を機に目黒区内のマンションに移り住んでいたという。この自宅で杉浦さんは死去した。

 
最近読んだ本
 
「ニュースキャスター」 筑紫哲也
 
 新聞記者、雑誌編集者からテレビニュース報道の世界へ。そして「ニュース23」を看板番組に育て上げる。久米宏さんの「ニュースステーション」と並び称されますが、久米さんがTBSからテレビ朝日へ、そして筑紫さんが朝日の記者からTBSへ。お互い、古巣にいれば、これらの番組は作れなかったと断言する。人は身内の評価は厳しいもの。他局へ移ったからこそやれた・・・なるほど。
 
 番組の名を上げたのは、来日した当時のクリントン大統領、朱首相を迎えての市民との対話集会、どちらも大きな反響を呼びました。クリントンさんの時も、いわゆる仕込みをしなかったので、例の「モニカ問題」をどう取り扱うか、迷いつつ番組を開け、自分が質問しなけらばと思っていたら、大阪のスタジオの女性が質問してくれた。
 
 そして日本の首相も呼ぼうと企画し、当時の小渕さんは前向きだったが、横槍が入って中止になってしまった・・・。
 
 朱首相はクリントンさんと違って、来日前からスタジオの椅子にこだわり、スタッフがやっと気に入りの椅子を見つける。筑紫さんが本番で確認すると「自分は足が短かいから、ゆったり座れるものがよかった」
 
 進行役だった筑紫氏の番組を締めた言葉
 
「次の世紀に、日本と中国が手をつなぐことができたら、世界のためにいろいろよいことができる。そのために考えなければならないことは、お互いのことを言いすぎること、そして放っておいても愛国的な国民なのに、いたずらに愛国心をあおりたてることだ。やりようでは、わたしたちにはいろいろな将来がある。」
 
 9・11の時は10時台のレギュラー番組を打ち切って、「ニュース23」繰り上げて特別番組として始めた。クリントンさんの時に番組が10分延長したときも、筑紫さんは個人の判断で打ち切りの指示を無視して続けたり(ジャーナリストとして当然だけれど)、局の枠組み、スポンサーとの問題で舞台裏は大変だったようです。でも、「臨機応変」こそ、テレビやラジオの報道の基本的な在り方と思います。今はどこも硬直しています。
 
 ゆく人
 
五十嵐喜芳(いがらし・きよし)さん  急性心筋梗塞 83才
 
 押し出しのいい美声のテナーでした。立川澄人さんと同時デビューでしたが、立川さんは早く亡くなってしまいましたが、五十嵐さんの「トスカ」での絶唱(翌朝の銃殺を控えて、主人公の青年が歌う「星は光りぬ」)は年老いても美しかった。
 
 ご本人は、大好きな寿司で晩酌を済ませ、床に入ってそのまま目を覚まさなかったそうです。年齢にも不足なし。こちらはある面、うらやましい死。
 
最近読んだ本
 

「 小説以外 」 恩田 陸

 どの競技を見てもそうだが、三位くらいが一番強そうな、いかにも怖そうな顔をしている。ところが、一位を取る人というのは割とボーッとした人が多い。(中略)本当に強い人というものはこういうものかもしれない。無用な殺気など発していても、勝負には関係ない。むしろ敵に警戒させ、マークされるだけ無駄だ。

 なるほど。おもしろい切り口がいっぱい。読みごたえあるエッセイでした。

最近知った言葉       アガサ・クリスティーの「終わりなき夜に生れつく」から

「フェイ」−スコットランドの言葉で、すべてがうまくいっているような気のする時、その上機嫌を表す言葉ですが、実は、それは災厄の前触れで気をつけなければならない、機嫌を抑えることが大事というニュアンスを秘めている。

 世間的には大震災その他、いろいろいっぱい問題があるけれど、わが家は今、安定期のように思います。息子達も自立、結婚し、嫁ハンも機嫌よく歌っており(苦笑)、両親もなんとか無事生きてくれていて、私も定年を迎えることができました・・・。これが束の間の平穏とわかってはいても、次にどんな波が来るか、覚悟して、準備しておかないと、と思います。

 テレビドラマ 「相棒」から 「密愛」

 今頃はまっているのですが、初代相棒の寺脇さんが去って、これは繋ぎの部分かな、相手は岸恵子さん。ほとんど2人芝居。高原の瀟洒な山荘に一人住まいの初老の美しい女性。彼女は水谷さん(役名を度忘れ)の大学時代のフランス語の教師という設定で、山荘の離れで自殺したと思われる謎の男について調べてくれという・・・。

 ふたりにたっぷり芝居をさせ、岸さん(70代とは思えない!)を美しく見せるのが狙い。細かい部分の矛盾は気にしない、気にさせないうまい作りでした。

2011年9月28日
 
「 遅れても いいなと思う 虹が出る 」
 
愛媛新聞 四国柳壇より 高松市 門田さん
 
 予想通りに厳しい就職戦線。担当スタッフは、本当に必死でがんばってはるのに・・・。会社の下見に行かせ、前日は面接の最終練習、服装のチェック、地図で道筋の確認、当日は朝の出発確認、会社近くでの報告電話と激励まで(ここまでやるかと思いますが)やってくれてはるのに、会社から未受験の連絡。会社に辿り着けなかったらしい・・・なんだかなあ。こちらは絶対、虹を見ていて遅れてはいけません。
 
 友人のお母様が急死。スーパーのトイレで脳梗塞で倒れておられたとか。男性と違って、女子トイレの個室では発見が遅れますよね。お元気と伺っていただけに、お気の毒で痛ましい。
 
 腰痛が治まらないため、お通夜を失礼。今日も整骨院へ。これでテニスは3週間休み。運動不足で体重も増えてきました。こりゃ大変だ。
 
 先日記した、整骨院を急に辞めたスタッフの事。ずっと気になっていたのですが、顔なじみの常連さん(大阪のおばちゃんです)が事情を聞きだしてきました。路上で立ち話情報伝達。
 
 お酒が好きで、朝まで飲んで、無断遅刻をしたらしい。それが直接原因で、彼は、実は酒とパチンコに明け暮れ、家庭は崩壊状態、すでに家も出たらしい・・・酒好きとは知っていましたが、子煩悩な好青年と思っていたので、お互いショック。信じられへん、院長も冷たい、もう、マッサージがうまかった彼もいないし、通院は辞めようか、とまくし立てるおばちゃん。まあまあ、短気出さんと、もう少し通いまひょや、と私。
 
 昨日のビッグニュースは、市川亀次郎の猿之助襲名、香川照之の歌舞伎デビュー、中車(ちゅうしゃ)襲名の報。これについては書きたいことがいっぱいあるので、週末に。
 
たまたま読んでいた本
 
「坂東玉三郎ー歌舞伎立女形(たておやま)への道」  中川 右介
 
 歌舞伎座に君臨していた女帝(あえて中川さんはこう表現している)で名門出の中村歌右衛門と「どこの馬の骨ともわからない」しかし美貌と才能に輝く玉三郎の葛藤と相克の40年の歴史。その中では同じく疎んじられていた猿之助と玉三郎の共闘、そして離別のドラマもあったのです。
 文藝春秋3月号でも採り上げられた、歌右衛門と玉三郎の養父、14代目守田勘彌の若き日の恋、失恋、歌右衛門の部屋の若衆との北海道への逃避行なども描かれ、新書本として読み応え十分でした。
 
 今日知った言葉
 
 「 万里一空 」 (ばんりいっくう) 新大関、琴奨菊の伝達式での言葉。宮本武蔵の兵法書からの語で「一切の迷いのない状態」のことらしい。孫の為に土俵を作ったという相撲好きだったお祖父ちゃん(一男さん)、そして本名(一弘)にも由来しているのでしょう。煩悩の塊の私には無縁の言葉かも(苦笑)。
 
最近知った味
 
「 神戸からの便り 」ーアイスバーですが、いちご、みかん、白桃、パンアップルが入っていてゴージャス。
 
「元祖 ねぎみそ せんべい 生葱使用」ーこれ、さっぱりしていて、おいしかったです。
 
「きんぴらごぼう味のかりんとう」ーこれも、まか不思議な味。
 
最近知ったこと
 
 「ロビイスト」ーロビー活動があるということは知っていたが、実体は知りませんでした。「特定の国や団体や企業などの利権の為に政治家や官僚への根回しを行う人々」のことですが、アメリカには法律に従い登録されていて、3万人以上もいる。ロビイストはマスコミや世論にも働きかけ、金銭贈与なども絡みやすいため、規制の方向があり、オバマさんも選挙前にそれを言っていたらしいが、なぜか立ち消え?
 
 アメリカは個人やグループ営業のようですが、中国など社会主義国は、特に強力な国家丸抱えのロビイスト団を有しているらしい。反日キャンペーンなど、いとも簡単に仕組めるといいますが・・・。
 
 藤原正彦さんのエッセイから
 
「日本人は『正しいことはいつか誰もがわかってくれる』と信じており、自らの正しさを大声で主張し宣伝するのは『さもしい』と思う。金銭をばらまくなどというのは最低の行為と思う。美しい誇るべき国柄だ。ただ、世界は日本人が考えるよりはるかに醜い」
 
確かに、そうかもしれないと痛感する昨今。
 
2011年9月26日
 
「 逝きし子の 立ち上がりたる 雲の峰 」
 
読売俳壇から 仙台市 勝さん
 
立ち上がる積乱雲。それは若く元気だったお子さんの姿か。震災・津波で亡くなられたのでしょうか・・・。
 
 友人の胸は放射線で黒く灼け、背中の皮膚も海で日焼けした後のように、ぽろぽろこぼれていました。○○病院の談話室。
 
7月の中国旅行より帰国した翌日から治療開始、今は転移した腰椎の治療に移り、腹にも大きく黒いマジック?で投射の目印の○と×のマークが描かれている。
 
 笑顔で現れましたが、10キロほど痩せていて、胸が詰まりました。激しい腰痛で座れないので、どちらも立ったまま5分余り、相変わらず憎まれ口を叩いて、握手して、振り返らず病室へ消えて行きました。
 
 燕が姿を消しました。帰省する前には見かけたのに。カレンダーもないのに、きちんと同じ時期に来て帰る。今頃、子連れの団体で南に向かっているのでしょう。つくつく法師も消え、虫の声が高まっています。朝夕は本当に涼しい。このまま本格的に秋に突入?それとも昨年のように、残暑が戻ってくるのでしょうか。
 
 ちょっと厚手のズボンに半袖のポロシャツという半端な恰好で歯科の定期検診へ。今回は久々の合格点。次回は11月末、温かいブランケット用意しておきますね、と笑顔のいい歯科衛生士さん。私が寒がりなことをよくご存じです。
 
最近の老い
 
 エレベータに乗って、ボタンを押すのを忘れて、じっと待っている。
 エレベータが止まって、扉が開いた階で、なにも考えず降りてしまう。
 信号と踏切を間違えて、開いた踏切の前でじっと停車している。
 HPの原稿を書いたのに、UPするのを忘れる。
 
 パソコンに詳しい友人の助けを借りて、思い切って買い換え、2台購入、夫婦一台ずつキープすることになりました。これで、お互い落ち着いて作業できます(HPするのも忘れない?ー苦笑)。新モデルの発売直前、前期決済の前ということもあって、友人も驚く値段でゲットできましたが、それにしても、この半年、エアコン、給湯器、トイレと退職に合わせたように次々故障、買い換え。親の介護、帰省も含め、新しい生活への切り替えはなかなか「物要り」です(苦笑)。
 
ゆく人  
 
コラ・ヴォケールさん(シャンソン歌手・93才)
 
 「枯葉」でも有名ですが、私は「さくらんぼの実る頃」。けだるく、しみじみと歌い上げる晩年の歌唱が好きでした。
 
山内 賢さん(やまうち・けん、本名藤瀬賢晁=ふじせ・のりあき=俳優)
 
 24日午前4時53分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去、67歳。東京都出身。
 
 55年に子役としてデビュー。その後、映画やテレビで活躍し、テレビドラマ「あばれはっちゃく」シリーズで教師役を演じて人気を博した。歌では、66年に女優の和泉雅子さんとデュエットした「二人の銀座」が大ヒットした。 
 
 笑顔のさわやかな青春スターでした。もう67才だったのだ。ずっと癌で闘病してはったのだそうです。
最近読んだ本
 

「トットちゃんの万華鏡  評伝 黒柳徹子 」  北川 登園

 

 ものすごい努力家の舞台人としての黒柳徹子さんの姿が見える本でした。

 

 彼女がアメリカで学んだメリー・ターサイの言葉「俳優は嘘つきだ。でも、嘘をついてはいけない。」

 

 かつて東京でチケットが手に入らないのは、日生劇場の越路吹雪ロングリサイタル、そして銀座セゾン劇場での黒柳さんの次々主演する舞台でした。

 

 銀座セゾン劇場、12年間の短い劇場の歴史の中で、黒柳さんは11演目に主演したのです。、その最後の演目は「マレーネ」ードイツ生まれのアメリカ女優、マレーネ・デートリッヒの70才を過ぎてのパリ公演の初日の夜の楽屋が舞台。黒柳さんはデートリッヒを研究し尽くし、その形態模写、声帯模写も絶品と言われ、絶賛を浴びました。それまで、タレントとしての名声が先行し、なかなか女優として評価されなかったのです。

 

 1999年11月28日、千秋楽の最後のセリフは

 

「私の最後のコンサートもおわりです。みなさん、私の涙が見えますか?感謝の気持ちでいっぱいです。さようなら。とくに、戦争中の私の勇気にさようなら」

 

 これは台本になかったセリフで、マレーネが実際に自分の引退コンサートの時に使った言葉で、マレーネはドイツ出身でありながら、戦時中ナチスに抵抗、連合軍の為に歌った思い出と、観客への感謝、黒柳さんはそれに愛した劇場閉館への無念の思いも込めたのです。

 

 観客総立ちのアンコールは30分に及び、伝説の舞台となり、その評判が、やがてこの劇場を「ル テアトロ銀座」という新しい劇場として再開させるきっかけになったのです。

 

とにかく、タフで研究熱心で、がんばりや。黒柳さんの意地もよく伺える評伝でした。

 

 

2011年9月24日
 
「 山清水 継ぎ足す竹に 流れけり 」
 
朝日俳壇から 茨城県 鬼形さん
 
 秋晴れ。友人2人と西吉野へ向かう。棚田の稲穂と、畦道の彼岸花が美しい。十津川の手前の渓谷は、合流地点で片方が清流、片方が泥流。上流にダムがあって放流している方が濁っているのです。国道は閉鎖。
 旧国道を分水嶺に向かう山道ですごい滝を発見というより、ここまでこの辺に詳しい友人が案内してくれる。地図にも観光案内にも乗っていないが、橋の目前に、高さも水量も圧倒的な滝が現れてびっくり。「大滝」とも「白滝」ともいうらしい。そこで引き返しました。やはり近畿は奥が深い。そして十津川への道は厳しい。
 
 西吉野温泉に浸かって帰る。帰り道でおいしい蕎麦を食べたので、帰宅したら、途中で買った豆腐が傷んでしまっていたのが残念。
 
 空にはきれいな羊雲、そして今朝は朝焼け、朝空には巻雲。気持ちのよい朝なのに、ヘリコプターが数台旋回してうるさいなと思ったら、近くの南阪奈道路で大きな事故(2名死亡)があったのでした。痛ましい。
 
ゆく人
 
 杉浦直樹さん  79才  肺腺癌
 
 ドラマ「父の詫び状」などで知られ、深みのある演技で活躍した俳優の杉浦直樹(すぎうら・なおき)さんが21日午後7時23分、肺腺がんのため自宅で死去した。79歳だった。
 
 愛知県出身。葬儀は親族のみで行う。喪主は妻仁美(ひとみ)さん。
 日大芸術学部中退。新演劇研究所の舞台で活躍後、「俺は待ってるぜ」で映画デビュー。「錆びたナイフ」の敵役で注目された。その後はテレビドラマに数多く出演、向田邦子さん脚本の「あ・うん」、山田太一さん作の「岸辺のアルバム」など数々の名作ドラマで印象に残る夫や父を好演した。舞台「あ・うん」で2002年、菊田一夫演劇賞受賞。 
 
 個人的に思い出深いのは、60年代のドラマ「男嫌い」。おしゃれなコメディでした。そして、1987年の「今朝の秋」笠智衆の老父の、男盛りで肺癌で死ぬ息子役。名演技でした。ラストシーンは誰もいない蓼科高原(老父の家)の朝、仏壇に杉浦さんの遺影。そして線香の煙り。
 
 生涯独身だったけれど、同居の女性はいたそうです。最期の言葉は「私の人生、バンザイ、バンザイ。皆さんにありがとうと言って下さい」
 
最近印象に残った記事

 東日本大震災の津波で多くの児童が流された宮城県石巻市立大川小学校から数キロ離れた海で、遺体の一部が見つかりDNA鑑定の結果、中学校教諭の平塚真一郎さん(45)と妻なおみさん(37)の長女で6年生だった小晴さん(当時12歳)と22日確認された。
 
 「せめて一部だけでもと思っていたら、本当にそうでした。それでも帰ってきてくれてうれしい」。捜索のため6月に重機の資格を取った、なおみさん。愛娘が帰ってきた今も重機を操り、なお不明の児童4人の捜索に加わる。最後の一人が見つかるまで−−。(毎日新聞)
 
 お彼岸に間に合ったのですね。胸が詰まります。
 
 
2011年9月22日
 
 「あべのハルカス」は21階部分(107メートル)を建設中。これでまだ3分の1。完成は2014年の春の予定ですが、時期を早めての部分開業も検討されているようです。
 
 台風一過で無事、遠足実施。私が付き添ったのは「須磨海浜水族館」。須磨は源氏物語のゆかりの地でもあり、ずっと行きたいと思いながら縁がなく、初めてでした。海山がより近く、松も砂浜も伸びやかに広がる風光明媚な地でした。源平合戦の地、一ノ谷も近い。
 
 水族館はコンパクトですが、いろいろ工夫もあって、楽しめました。鮫に初めて触れた(撫でた)のですが、頭から背中にかけてと、その反対では肌触りが全然違う。滑らかとざらざら、なるほど、これが高速水着のモデルになったのか。アナコンダは迫力。各種の海月の姿と動きの美しさに感動。シャンデリアみたいだ。これ家に欲しい、と叫ぶと、高いんですよーと同行の若い同僚。そういえば、かつてあちこちにあった(天王寺にも一軒)「くらげバー」いつの間にか消えてしまったなあ。あれは癒しの空間でした。
 
 生徒も喜んでいました。でも、参ったのは巨大幼稚園?の遠足ご一行とぶつかったこと。可愛いけれど、その賑やかさ。館内では会話もままならない程でした(苦笑)。
 
 おそらく近年最大のショック。
 
 39年来の友人で、7月に一緒に中国に行った友人のひとり。体調がちょっと悪そうに見える時があったので、受診を勧め、帰国後、検査し、癌と判明、治療中と、いう話は、先月、書きました。
 
 実は、旅行前に既に受診していて、本人、家族は知っていたのです。即、治療に入るべしのところ、本人の強い要望で延期、我々にも事実を伏せて(我々が知れば、当然、中止しました)、旅行に参加したのです。奥様も覚悟の上で、納得して送り出しはったのです。
 
 思えば、私の退職記念にと、この旅行を企画してくれたのも彼でした。
 
 朝の空港で、笑顔で落ち合い、早速ビールを飲み、泰山に登り、夜遅くまでしゃべり、また青島ビールを飲みまくり・・・楽しそうにしていたけれど、どんなにしんどかったことでしょう。
 
 今日、転移がわかり入院、の報を受けた上で、事実を知りました。
 
 この、大うそつきめ!
 

2011年9月21日

喜びが集まったよりも

悲しみが集まった方が

しあわせに近いような気がする

強いものが集まったよりも

弱いものが集まった方が

真実に近いような気がする

しあわせが集まったよりも

ふしあわせが集まった方が

愛に近いような気がする

星野富弘さん―雑誌 JAFの今月(9月)号の「風の歌」より

個人的に相田みつをさんは×で、星野さんは○、これって微妙。

 5年ぶりの運転免許更新。一応、優良ドライバー?なので、警察で簡単な目の検査と、安全協会で30分のビデオ講習を受け、後は郵送の手続きをして終わり。

それにしても、だるいと思って座った30分のビデオ、よく出来ていました。以前のように露骨ではなく、しかしリアルな事故映像(子どもが車にはねられるシーンもあり、合成?)で、いろいろな事故のパターンを説明しているのがいい。

 信号のないところで、右折しようとしてウィンカーを出していたら、対向車が停まってくれる。よっしゃ、ありがたい、と急いで曲がろうとすると、その車の陰からバイクが飛び出してくる・・・あるある、気をつけにゃ。

 最後の5分は、これもお決まり、事故の遺族の話。20歳の大学生の一人息子が寝坊したので、夫婦で「はよ行かんかい!」と叱って送り出す。「ハーイ!」と言って元気にミニバイクで飛び出してゆく・・・。

 信号のある幹線道路との交差点、彼は青信号に変わったので右折、そこへ、左の幹線道路から猛スピードで来たトラックが、赤信号なので停まっていた前の車を追い抜いてクラクションを鳴らしながら突っ込んでくる(このパターン、たまに見ます)。ミニバイクの彼は接触して転倒、トラックの後輪に轢かれて7時間後に死亡。

 トラックの運転手は禁固1年2ヶ月の刑(そいつが、一方的に悪い!刑が軽いんちゃうのん!と思わず叫ぶ私)。でも、死んだ若者の両親は、相手でなく、ひたすら自分たちを責める。あのとき急がせなければ、最後にあんなにきつい言葉を掛けなければよかった・・・痛いほど、わかります。バックに息子さんがギターを弾いて歌っているオリジナルソングが流れる・・・もう、ここで私はウルウル。

免許更新に来て泣くやつもアホやけど、このビデオを見ないで、ひたすらケイタイをいじっている前の席の大学生?にも腹が立つ(後ろからアタマしばいたろか、と思いましたー苦笑)。いくら安全運転を心がけても、とんでもない運転に出遭ってしまうこともある。それに、自分の運転能力も反射神経も衰えてきている。運転できるのはあと10年かなあ。次回更新したら、その次はもう免許を返してもいいかな、と思う昨今です。          

 でも・・・今、一番腹が立つのは、昨今の大阪の教育界と、それを取り巻く状況。

 現場を無視し、教師の手当を削り、手足を縛り、チームワークを乱し、保身に走らせ、意欲を削いで、なんの利があるのでしょうか?こんな教育界に意欲ある若い人材は集まりません。自分たちの卒業した進学校やイエスマンの教師をベースに考え、異を唱える教師(この存在が大事)、できない生徒、貧しい家庭は切り捨ててゆく・・・そのような方向性に絶対反対です。

大阪は日本はどうなってゆくのだろう。「教育は国の柱」のはずなのに・・・。

2011年9月20日
 
「 赤とんぼ じっとしたまま 明日どうする 」  風天
 
 台風の北上、秋雨前線、大雨が続き、被害も拡大。もう、踏んだり蹴ったり。ここでめげないことが大事です。
 
 故郷に帰省して、まずしたこと。弟の車を借りて、母を施設に迎えに行き、町にある、母の50年以上なじみの美容室に「放り込む」(こういうと母は、私は荷物じゃない、と怒るー笑)。また行くの、と言われるけれど、90才を過ぎても身だしなみは大事。そしてこの間に、ゆっくり買い物をするのです。久しぶりにパーマをかけた母はご機嫌でした。迎えに行くとき、美容室には朝採りの無花果をお土産にして、ごまをすっておく。
 
 ずっと腰痛が治らないので、帰阪してすぐ、行きつけの整骨院に行く。ここは開院して明日で1年半。でも、チェーン店ということもあり、スタッフの入れ替わりが激しく、院長は二人目、6人の内、開院以来残っていた二人のスタッフのひとりが先週末に辞めてしまったという。私もよく揉んでもらったので、ショックでした。彼は34才。新しく来た院長が20代ということもあって、いろいろ気を遣うことがあったみたい。辞めてどうするって言ってた?と院長に訊いても、知りません、この時期、年齢もあって再就職は難しいでしょうね、というつれない返事でした。
 
 最初に、きつくて痛いマッサージはいやだから、眠れるような「安眠マッサージ」でお願います、と言ってあるので、スタッフみんな、申し送りして柔らかめに揉んでくれるのだけれど、辞めた彼だけは、私の身体の慣れにしたがって、だんだん強く揉んでくれるようになっていました。私もその揉み方が「痛気持ちいい」感じになってきていて、彼に揉んでもらうのが楽しみでした。休日は、息子とピカチューの映画を見に行くんです、と言っていた彼。どうしているでしょう?
 
 先日書いて、反響が大きかった面接のパンツスーツの件、今日、確認したら、紺でなくても黒でもいいということだったそうですが・・・それでもねえ。
 
 最近知った言葉
 
「マルチタスク」ー同時平行処理ー聖徳太子でなくても、職種によってはこれが出来る人は結構いるようです。確かに、若いときは複数の生徒に同時に話しかけられても、聞き分けることができました。でも、今は全然ダメです(笑)。
 
職業柄と言えば、福田和代さんのエッセイでー
 
 航空管制官の方々は、視力が抜群によくて、3.0以上ある方も多数いるという。
 
「突然何もない空を指さして、今あそこの空間が歪んでいるでしょう。もうすぐ航空機が見えてきますよ、などと言われ、ぽかんと見上げていると、数分後には本当に航空機の影が見えるという塩梅・・・」
 
 映画「アラビアのロレンス」を思い出しました。銃声がして人が倒れ、やがて、砂漠の蜃気楼の向こうから銃を構えてラクダに乗ったオマー・シャリフが現れる・・・。
 
 最近読んだ本
 
「新参者」 東野 圭吾
 
 話題になったドラマの原作。やっと読みました。さすがにおもしろい。江戸の名残のある東京、日本橋を舞台にユニークな刑事の捕物帖じゃなかった、人情?捜査。町の描写は期待ほどではありませんが、個々の登場人物を丁寧に描いているし、それぞれのエピソードがきれいに連鎖しているので、だれないで、読者をぐいぐい引っ張ってゆきます。但し、犯行の動機がちょっと弱いなあ。
 
 これも、今頃になって、ドラマ「相棒」に嵌っています。それも寺脇さんが共演のもの。脚本が実によく出来ていて、俳優達が気持ちよさそうに演じてはる。「北の国から」もそうでしたが、テレビ番組も後から駆けつけることがよくあるのです(苦笑)。映画もしばらく見ていないなあ。
 
 
 
2011年9月19日
 
「 秋の野犬 ぽつんと日暮れて 」 風天
 
 帰省中にテレビで、ファンだった太地真央さんの特集番組を見ました。26年ぶりの(若い人は知らんはずやー苦笑)の美しい伝説のトップコンビだった黒木瞳さんとの共演も懐かしい。私は太地さんを、そのタカラヅカ歌劇入団から退団まで見届け、退団後、この人に「マイフェアレディ」のイライザをやって欲しい、と思っていた願いが叶い、それを楽しみ、そして昨年10月、その役を演じ終えたことに深い感慨を持ったものです。
 
 番組でこころに残った話。
 
 当時すでに大スターだった真央さんとの共演のすごいプレッシャーに、人前で泣き出してしまった黒木さん(研2ー初舞台から2年目の異例の大抜擢で嫉妬、批判の嵐を浴びていた)を、「ここで泣いちゃダメ!」、と引っ張って、自分の車に乗せ、六甲山頂へ走り、車を停め、ここで泣きなさい、とハンカチを渡し、存分に泣かせた後、そのハンカチを投げ捨てなさい、といって崖から放らせた・・・。カッコイイ。
 
 黒木さんの語る真央語録のひとつ・・・「偶には、人に努力している姿を見せることも大事」ナルホド。
 
 「マイフェアレディ」の役作りで。
 舞台のジュリー・アンドリュースも映画のヘプバーンも日本版の江利チエミも、みんな冒頭の花売り娘のシーンで顔を汚して登場した・・・。真央さん曰く、スラムの娘でも、強い向上心を持った娘のイライザが顔を汚して花を売るはずはない、ショーウィンドーで顔を見て、汚れを拭って街角に立ったはず。顔を汚した方が、美しい貴婦人になった後とのギャップを生むので効果的なのだけれど、あえて汚さなかった・・・納得。
 
 導入のつもりの話が長くなりました。言いたかったのは、いつ代表作を、その役(仕事・立場ともいう)を降りる決意をするか、という課題なのです。
 
 坂東玉三郎さんーこの人、私と同い年(昨年還暦)、身長もほぼ同じ(体重と顔は違うー笑)、彼が18才、国立劇場でその他大勢の腰元役を演ってはった時から見続けてきた。その幸せについては別の時に語ります。
 彼は2年前に彼の代表的舞踊作品「鷺娘」を、そして昨年「京鹿子娘道成寺」を、普通の歌舞伎公演ではもう踊らないと明言しました。いちファンには見えない衰え、限界を自身で自覚して幕を引くことの潔さ、難しさ。80過ぎて娘役を演じた森光子さん、中村歌右衛門さんは・・・。
 
 人生に於いても、仕事に於いても、すべて同じような事が言えるのでしょうね。四国に帰省する度に、更にいろいろ考えてしまいます。
 
 最近読んだ本
 
「瓦斯灯(がすとう)」 連城 三紀彦
 
 恋愛推理小説と銘打った短編集。表題作は、17年前に相思相愛だった若い二人が、今、再会して明らかになる離別の意外な真相と新たな感情の動き。どんでんがえしの連続で一気に読ませられるけれど、哀切な結末で後味も苦し。
 他に「花衣の客」「炎」「火箭(ひや)」「親愛なるS君へ」。どれも凝ったつくりで、楽しませてくれるけれど、もうこんなシンドイ恋はどれもしたくないなあ、と思ってしまうのは、年のせい(苦笑)。
 
 
2011年9月18日
 
「 ゆうべの台風 どこにいた ちょうちょ 」 渥美 清
 
 渥美さんの俳号は「風天(フーテン)」。いいなあ。
 
 迷走台風が、改めて日本を目指して動き始めているようです。降り続く秋雨に学校行事は大変。やっと晴れた今日、上阪の途中、車中から、実に5県(大阪府では見かけませんでした)にわたり、あちこちで運動会、体育祭を見かけました。
 
 前任校の文化祭も土曜日に行われ、雨の中、バザーも盛況だったようです。よかった。
 
 16日から就職試験が解禁。直前まで担任中心に面接指導に明け暮れていましたが、そんな中で、直前のアクシデント。最終確認の段階で、受験先の会社が、当日は受験者は「紺のパンツスーツで来るように」と言っているという。なに!?それって。早速、就職担当の同僚が会社に電話。
 
 急なことで、用意できません。スカートでは、標準服(本校には制服がない)ではダメなのですか?なぜ、紺なのですか?
 
 それがうちの決まりなのです。事前の会社見学に来られた方には、そのようにお伝えしてあります。
 
 事前の会社訪問は行った方がよくて、学校も薦めていますが、義務ではなく、受ける可能性のあるすべての会社に行くわけにもいきません。もー、腹立つ。受話器を奪い取って怒鳴ってやろうかと思いましたが、さすがに我慢(苦笑)。でも、これって、明らかな、落とすための作為的なやり方。何も知らずに行った生徒、指定の服を用意できなかった生徒は、その時点で門前払いということなのですね。
 
 結局、紺のパンツスーツをなんとか都合して受けに行くことになったようですが、腑に落ちません。正直、その会社の在り方そのものを疑います。でも、そんなこと、今は言えません。
 
 ハローワークの人から聞いた話。
 
 厳しい厳しい今年の採用試験の面接での会社側の隠し球?「15秒スピーチ」
 
 面接の途中か、最後に「では、自己アピールを15秒でどうぞ。」
自己アピールの練習はかなりやっていますが、15秒とは・・・。それも、いきなり。
 
 息子達に訊いてみました。
 
上の息子「練習したようなことを早口でしゃべりまくって、すみません、時間オーバーしました、と謝る」(そうやろなあ)
下の息子「絶句。あー、うー、とか言うだけで、時間オーバーすると思う」(そうやろなあーうちの生徒も同じ)
息子達「お父さんは?」
私「うーん、『酒と御社が大好きです。健康です。がんばります。よろしく御願いします。』こんなもんかなあ」
下の息子「最初に酒が出た時点でアウトやな。」
上の息子「でも、御社が先だとしらじらしいしな。」
息子達「どっちにしても、3人共、バツ!」
 
 そう、これも落とすためのトラップなのでしょう。いかにそれをクリアするか。でも、志望動機をきちんと言うことも大変な現状なのです。難しいなあ。
 
 そして、東北から受験に来ているという高校生達。事前情報も充分ではないはず。どうしているでしょう?
 
2011年9月14日
 
「 見つけても 放射線出す一枚の 家族写真を 持ち出せぬ友 」
 
朝日歌壇から 福島市 澤さん
 
 もう、早速、大臣の失言、辞任があったりしていますが・・・。家族写真、なんとか方法はないものかなあ。コピーするとか・・・。
 
 震災遺児の支援をしたい、という気持ちを汲んでくれた前任校の友人が、17日にある学校の文化祭でPTAバザ−をその趣旨でやってくれるということになり、その提供品として、現任校でやった職員バザーの残りの品々を10日、取りに来てくれました。
 
 また、そのバザーのことを、以前(10数年前)担当したPTA仲間に連絡すると、皆さん、即、賛同して下さって、今日もそのおひとりから、提供品届けたよ、という連絡あり。
 そのKさんは震災直後から、募金活動をしたり、下着など送ったり、いろいろ支援しておられたそうで、毎夏主宰してはった子どもキャンプで、今年は東北から薪を取り寄せたら、その中に損壊した家屋の一部があって、それを見てみんな泣いたそうです。
 
 継続して支援活動したかったんや、ありがと、と言われて、却って恐縮しました。こういう方々が全国にいっぱいいるんです。政治家、ガンバレ!
 
 今、月が顔を出しました。
 
 11日は、身体がだるかった(先週の座禅以来の腰痛継続)のですが、嫁ハンの北新地でのライブに出掛ける。かつての同僚が来てくれるのです。彼は、なんと白い大きな紫陽花の花束を嫁ハンにプレゼントしてくれる。ヨーロッパから届いたものだそうです。嫁ハン大喜び。その夜の「待宵の月」もきれいでした。
 
 そして、今夜は仲秋の名月(それも6年ぶりの満月の名月だそうです)。でも、今年は、すすきと萩ではなく、紫陽花が窓辺に飾られています(笑)。
 
 全米オ−プンテニスも大詰め。いつもながら、準決勝がすごい試合になりました。男子の1試合はフェデラー対ジョコビッチ。かつての王者フェデラーが第5セットの第10ゲーム。自分のサービスゲームで40ー15のマッチポイントを握ったのに、ジョコビッチにひっくり返されました。それが新旧王者の勢いの差なのでしょうか?
 
 終盤までフェデラーを応援していた観客席も、マッチポイントをすごいリターンで凌いだジョコビッチの執念に、がらっと声援の対象を変えてゆく・・・そこらあたりも非情でした。
 
最近気になった人、言葉
 
 乙武 洋匡 さんーーー先天性四肢切断という障害を持つ彼の過激な?ツイッターが話題です。
 
「 よく考えたら、『アホの坂田』ってすごい通称だよなあ。うーん、僕だったら『カタワの乙武』?これじゃ、テレビ出れないか』」
 
これが反響を呼んで、彼自身が補足説明
 
「 『障害者』の『害』の字に社会への害という意味合いを感じるからひらがなで記そう」、という動きがここ数年進んでいますが、違和感を覚えます。障害者に対する世の中の意識はそのままに、言葉の表面だけを柔らかくしても意味がない。次は『障害者』の『障』は差し障りがあるという意味だからと『しょうがい者』と書くようになるのは目に見えているでしょう。
 しかし、そもそも『障害者』だって、『カタワ』なんて酷い表現だから、と使われだした。みんなが障害ある人に対して、差別意識を持っている以上、どんな言葉を使っても『差別語』と言われます。字面を変えても本質を変えなければ意味がない。そう、訴えたくてあえてカタワのような強い言葉を使うのです。カタワを『使っていこう』というのでもなく、『使うのをやめよう』というのでもなく、『障害者にこういう言葉を使うのを止めよう』と規制することの是非を考えていただきたくて」
 
 共感しました。2年前、職員会議で、管理職か、障害者の表記を障がい者に、という話があったとき、私が手を挙げて反論した、その全く同じ論理で、もちろんもっと正確に、しかもあの乙武さんが言うてはる、というのに感激、感動しました。
 
 私の近しい人も、最近は「障がい者」と表記してはる。なにか孤立感を感じていたのです。
 
 追記、乙武さんの所属するバンドの名前は「カウパーキング」(カウパー氏腺液ー尿道球腺液)なので、紅白歌合戦に出られないかも、心配、と笑ってはりますーやるなあ。
 
新聞記事から
 
 男性2人ユニット・ポルノグラフィティが10日、静岡県掛川市のヤマハリゾートつま恋でスペシャルライブを行い、東日本大震災で被災し、船を失った漁師たちにエールを送った。
 
 広島県因島出身の島育ちで、漁師が身近な存在だった2人は、チャリティーグッズの収益すべてと会場で募った義援金を漁船の購入費用に充てる支援を実施。ボーカル・岡野昭仁(36)は「みなさんの思いのこもった“ポルノ丸”を東北に届けられます」とファンに感謝した。
 
 最初、「ポルノ丸」と聞いて、ドキッとしましたが(笑)、これはこれでいいと思います。
 
 昨夜は雲のない空、今夜は群雲、どちらにしても秋の月は殊に美しいものですね。見られてよかった。来年の名月を見られる保障は誰にもありません。
 
 
「 門とぢて 良夜の石と 我は居り 」  水原 秋桜子
 
 「石として」ひとり誰にも妨げられず月を味わう・・・。
 そういえば、昔は必ずあちこちへ出掛けて月見の大(小)宴会をしていたものでした。山の上、古墳、石川の畔、屯鶴峰、唐招提寺・・・いろいろやったなあ。年と共に、そのパワーも失せ(?)、夫婦で、あるいは友人とふたりでというパターンが多くなり、今年は嫁ハンも出掛けていたので、ひとりで名月、十六夜を味わいました。これもいいものです。
 
 先日記した、嫁ハンのライブでいただいた大きな白い西洋紫陽花、窓辺で見ると、月の光を浴びて、銀色のような不思議な色を放っています。Tさん、ありがとう。
 
 朝4時過ぎ、肌寒くて目を覚ますと、閉め忘れていた窓から冷たい風が流れ込んでいる。西の空に十六夜の月が残り、蝙蝠が飛び交っている。
 
 前期成績が出て、判定会議。前期卒業が決まる。彼ら彼女らは3年半、4年半、5年半で卒業するのです。あと数単位で卒業を逃した者も。悔しがる者、私は区切りがいい3月にするんだ、文化祭もあるし、という確信犯?も(苦笑)。授業料無料化(これもいつまでのものやら?)の影響もあるのでしょうか。
 
 半期完結の科目はもう終了。私の担当科目のひとつ、「現代文学講読」は毎時間、短編1編以上を読んで37作品を読み終えました。音をあげた生徒もいたけれど、感想を書かせると「今までマンガばかりで本はほとんど読んだことがなかったけれど、読んでみて、いろいろ想像するって面白いということがわかった。最近は買って来て、家でも読んでいる」なんていうのがあると、それなりに、やってよかったと思います。こういう思いが無ければ持ちません。
 
 さて、今後、後期に向けて、科目登録、入試などもありますが、私は今夜のフェリーで帰省させていただきます。母が首を長くして、父が酒を用意して(笑)待ってくれています。日曜に帰って参ります。
2011年9月10日
 
「 未来もう来ているのかも 蝸牛 」
 
神奈川県 菅 千華子 さん
 
 今年の俳句甲子園(好きなイベントではありません!)の最優秀作。かつてのように未来は輝かしいものではない。厳しい現状の中で地道に生きるしかない。蝸牛のように遅い歩みでも。今の高校生の意識ってこんな感じ?
 
 下の息子のお嫁さんの十津川実家は、電話も繋がり、先ほどの連絡では独り暮らしのお母さん(私と同年代)も昨日から仕事に行かれているようです。でも、職場までの道は復旧したものの、細い悪路で車の離合も難しいとのこと。大丈夫かな?食物は普段からの蓄えがあったのと、救援物資(カップ麺など)があるので心配いらないとのことです。水は上水道はダメですが、井戸水があり。
 
 上の息子とリュックを背負って支援に行こうかと言っておりましたら、絶対行ったらアカン、と下の息子に釘を刺されました(苦笑)。今は自衛隊や警察のレベルの仕事なのです。
 
 帰省は来週で、今週末は大阪で過ごします。まず金曜日(出勤を要しない日)は懸案事項の老後の資産運用の相談に銀行へ。これが大変。3度目ですが、私の飲み込みも悪くて、説明を受け、相談、契約などで4時間みっちり。疲れました。
 
 その後、電車で大阪駅へ。京都から来た姉と会って、彼女が今、打ち込んでいる俳句の作品について相談を受ける。田舎の両親の話もして2時間。
 
 夕刻、都島(なかなかええ街でした)でかつての同僚と会って飲む。彼は6月に病気をしたのだけれど、まま、元気そうなのでひと安心。彼の行きつけの店で2時間。この店の売り、魚も焼酎もおいしい。
 
 彼の家の近所らしいので、上の息子夫婦の転居先に初めて寄る。なんと2軒は50メートルほどの近所同士。笑ってしまう。息子のマンションの前で元同僚と別れ、息子の家でケーキを食べて帰る。
 
 よく、喋った一日でした。
 
 退職して時間に余裕があるでしょう、とよく訊かれますが、その実感はまだありません(苦笑)。
 ずっと人生の課題?のひとつに「つれづれ(ひま、退屈)」を味わう、というのがあったのですが、ものごころ付いて以来、一度もありません。幼い頃から、休日は田や畑に行っていたし、就職後も仕事に追われ、休日も帰省やクラブで潰れたし、もちろん、遊びや趣味にもたっぷり時間を費やしました。
 
 中学時代からの旧友で、この欄にもよく登場する悪友Nは、病気療養で40年間ずっと家にいて、私と対照的な生活を送ってきました。私が「暇」を知らないと言うと、彼は「忙しさ」を知らないという。そしてお互い深い溜め息。同じ時間が二人の上に流れたのに・・・。
 
 この夏に帰省したとき、彼に言わせれば、私の雰囲気が変わってきたそうです。今までの、何かに追われているような、切羽詰まった感じが消えてきて、ちょっとリラックスしてきたね・・・。彼にそう言われたことが嬉しかったです。40年を越え、これからしみじみとした(似合わないなあー苦笑)交歓ができそうな気がします。
 
 最近テレビで見た映画
 
 「 山の郵便配達 」
 
  これはずっと以前、映画館で見て感銘を受けた中国映画。2泊3日で江南の山を巡り郵便配達をする仕事を父から息子へ引き継ぐ話。前回は、息子の立場でも半分見ていましたが、今度は完全に父の立場で見ていました(苦笑)。
 
 「 大奥 」
 
  「山の郵便配達」の流れで見てしまいました。昨年の日本映画の話題作。江戸時代、奇病で男子の人口が減り、子孫を残すため若い男が重宝される。その極端な例が大奥で、能力の高いイケメンの男、三千人が集められ、女性将軍、吉宗の寵愛を得ようとする・・・。発想は面白いが、作りがねえ。演技の出来る二宮クンは江戸っ子の気概に欠けて為所なく、将軍の柴咲こうさんは、どう見ても跳ねっ返りの奥女中止まり。ま、気楽なファンタジーということで。
 
 「 コンドル 」
 
 同名のアメリカ映画はいくつかありますが、これが最古?。なにせ、若き日のケーリー・グランド主演なのです。共演は勝ち気なジーン・アーサー。中南米の、ある港町にある飛行場の郵便関係飛行会社の経営者兼パイロット。その町に流れて来たピアノ弾きの女性(アーサー)と恋に落ちる。
 
 様々な事件を絡め、同僚を失いながら、タフにクールに生きてゆく男達。友人の死の直後にも、酒を飲み、歌を唄い、危険な業務に飛び出してゆく。主人公が一度しか見せない涙が女性の胸を締め付ける。ほとんどがセットで、飛行シーンも今から見れば稚拙な特撮だけれど、却って緊迫感あり。
 
 ハリウッド一のベストドレッサー、ダンディと言われたグランドが、汚れた作業服と、飛行服でひと味違った魅力を見せます。でも、やはり、ちょっとしたスカーフの使い方は流石です(笑)。
 
 
最近印象に残った言葉
 
今、改めて向田邦子さんが脚光を浴びています。私もファンのひとりですが、ずっと前にこんな文章を久世光彦さんが発見。採り上げています。筆者名の部分をコピーし忘れました。
 
〈 向田邦子は、小説の中で、虚構を借りてありのままの自己を語ろうとしたが、それは不可能、少なくとも非常に困難であることが、書き始めてすぐにわかった。二十編ほどの小説の多くは、こざかしいだけで底の浅いものである。成功した作もあるが、それは自己を語ったものではない。むしろ向田邦子は、最も失敗した作の中で血をしたたらせている〉ー慧眼である」
 
 悪口でも非難でもなく、作品を読み込んだ人間の言葉で、それはしっかり別次元の評価に繋がっています。向田神話の中で、それを認める久世さんもえらい。
 
 
 
2011年9月8日
 
「 蛍光灯にも 寿命ありけり 黒ずんで 患部のごとく見ゆる箇所あり 」
 
読売歌壇から 東京都 小菅さん
 
 確かにそうです。この捉え方、うまいなあ。自身の身体や病気のことも顧みてしまいます。
 
 やっと秋めいて、綺麗な空と夕焼け。でも、また雨が来るとか。十津川が心配です。
 
最近気になった人物
 
瞳 みのる さん  
 
「週刊文春」阿川佐和子さんとの対談から
 
 元タイガースのドラマー。65才。1971年の1月にタイガースを解散、翌72年に25才で慶応に入学、大学院を卒業後、慶應義塾高校で中国語、漢文を教え、昨年退職。音楽活動を再開、この9月から始まった沢田研二の全国ツアーに参加。
 
 ずっとこの人の人生、気になっていました。71年、武道館での解散コンサートの後、有楽町のガード下で打ち上げ、引っ越しトラックを店の横で待たせ、打ち上げ後、「じゃあ、みんなさようなら」と助手席に乗り込んで実家のある京都へ。そして、2008年に再会するまで38年間、メンバーの誰とも会わなかった・・・。
 
 その徹底ぶりがすごい。音楽をやりたかったのに、やらせられていたのがいやになった、そうしてアイドル路線という商業ペースに乗せられ、グループが分断統治されたのだそうです。
 
 「加橋かつみは、突然、仕事をキャンセルしてパリへ行っちゃった。それはやっちゃいけないこと。だから、僕は一年後に辞める、でも、それまでの仕事の約束は守る、迷惑はかけない、と言ったんです。」
 
 なぜ、音楽を再開したか?タイガース時代のマネージャー、中井さんの存在があったようです。中井さんが2008年の秋、高校の文化祭に来て、メモを残していった。再会した中井さんは「仲のよかったグループを台無しにしてしまった申し訳なかった」と侘び、そしてこだわりがとれた。
 
 瞳さんはその年に離婚、そして脳溢血で倒れ・・・今、「舞台で倒れれば本望」と語る。人生の不思議な綾。
 
 元マネージャーの中井さんは先月8月に亡くなられたそうです。タイガース再結成は彼の悲願だったのでしょう。
 
 タイガース全盛期は私の中高時代、まさに超人気アイドルグループでした。今のスマップよりヒートアップしていたかも知れません。四国の田舎でそれですから(苦笑)。
 
 
2011年9月7日
 
 「 リボンつけしままに 眠れる幼子を 見守りつつおり 泪ぐむままに 」 大野 誠夫
 
 この歌の場合は女の子ですが、遊び疲れ安心して眠り込んでいる子どもの寝顔を見つめて、ジーンときた経験は多くの人にあると思います。ただ、抱いている時に眠られると、急に重くなるのですね(苦笑)。夏は暑いし・・・。
 
 十津川の嫁さんの実家は、家屋も無事だったみたいです。でも、まだ電話はあちらからの一方通行のみ。水が足らないというのが心配ですが・・・。
 
 期末考査最終日、廊下監督(考査に遅れてきた生徒の携帯を切らせ、教室確認して送り込む仕事ーこんなんもあります)を済ませて、大阪市内の中学校訪問へ。学校を紹介し、学校説明会に参加してもらうようにパンフレットなどを渡す。近年はどこの高校もやっています。いわゆる、営業活動ですね(苦笑)。でも、このお先不透明(真っ暗かもー苦笑)な大阪教育界、正直、自信を持って、うちへいらっしゃい、ということが難しいなあ(言っておりますが・・・苦笑)。
 
 ま、自分に出来ることを一生懸命やるしかありません。
 
 最初の中学では何か事件があったらしく、取り込んでおられたので、早々に資料を渡して失礼。天下茶屋から風の吹く通りを歩いて2校廻り、大阪砂漠を阿部野橋まで歩いたら万歩計表示は9000歩でした(万歩計の「シルクロードの旅」は今、タクラマカン砂漠を横断中)。よく歩いた自分に勝手にご褒美を。好きな店で「冷やし坦々黒ごま」(880円)をおいしくいただいて帰りました。
 
好きな番組「クラシックホテル憧憬」
 
 今回は上海の「アスターハウスホテル」 
 
 1846年創業 。ヨーロッパ風建築が1キロに渡って並ぶ外灘の外れにあり、高杉晋作、アインシュタインも泊まったという由緒あるホテル。エレベーターに乗らず階段で部屋に案内される。踊り場のステンドグラスが自慢なのだ。
 いいなあ。この地区はイギリス租界、フランス租界の名残が濃い。ジャズが似合う街。上海ってやはり独特の雰囲気があります。もう一度、ゆっくり訪れてみたい。
 
最近心に残った話
 
沢村貞子さんの話 つづき
 
 脚本家 早坂暁さんの文章から。彼は私の故郷の隣町(テレビドラマ「花へんろ」の舞台になった松山市北条ー昔は「風早町」ーです)の出身。今も実家の「勧商場(かんしょうば)」が居酒屋ー昔は百貨店ーになって残っています。
 
 そのドラマ「花へんろ」(ちなみにナレーターは渥美清さん)の収録のスタジオで珍しい「本読み」をしたときのこと。「本読み」とは、昔の舞台で、作者、脚本家が、まず出演者に自分の書いたセリフを読んでみせること。(出演者が読むことは「読み合わせ」)。この作品に思い入れが強かった早坂さんが提案、実行したのです。
 
 ずらりと並んだ豪華キャストを前に、早坂さんは緊張して立つ。
 「ではこれから本読みを始めます」と言うと、正面中央に座っていた主演の桃井かおりさんが、すかさず拍手。あわてて隣の藤村志保さんがつづく、その隣の磯野洋子さんも。拍手が広がる・・・。
 
 その時、後ろから「ちがいます!」の一言。拍手が止む。
 
 沢村さんがよく通る声で「よろしく」一呼吸置いて「御願いいたします」
 
 慌てて他の俳優たちもその後に続く。その後の本読みは非常にやりやすかったそうです。
 
 彼女がいると座が締まって、いい雰囲気で撮影が進む。主人公のおばあちゃん役で、第3編まであった最終シリーズには亡くなって出演出来なかったけれど、整形の失敗で鼻が曲がってしまう役を楽しみにしていたそうです。
 
 ただ、江戸っ子だけあって、伊予弁の語尾「なもし」(例ー「これはイナゴぞなもし」)のイントネーションは最後までうまく発声できなかったそうです(笑)。わかります。あれは難しい。
 
 
2011年9月6日
 
「 わが町の ガス管補修してくれる 大阪男 りりしく見ゆる 」
 
読売歌壇より  仙台市 小野寺さん
 
 軟弱と言われがちな大阪男、がんばってくれています。頼もしい。もちろん口も達者です。
 
 息子の嫁さんの実家、十津川村のお母さんは、昨夜(5日)遅く、無事が確認されました。停電で携帯も充電できなかったのでしょうか、どなたかに借りたのか、見知らぬ携帯から息子夫婦に連絡があったようで、短時間の会話だったので家の被害などはわかりません。とにかく無事でよかった。ひと安心。
 
 ゲリラ豪雨や台風の経路も含め、日本、いや世界全体の気候環境が変わって来ているようです。災害対策も見直さなければ。今回も災害対策地区に指定されていなかった地区にも大きな被害があったようです。
 
 復興事業がゼネコンと繋がった過剰な工事になってもいけません。故郷の村は30数年前の台風以来、村はコンクリートの塀に囲まれ、川はコンクリートの溝となりました。魚も蛍もカワウソも消え、大雨が降ると、山から転がり出た大石が、ボーリングのガーターの如く、ゴロゴロと不気味な音を響かせて川、じゃなかった溝を転がって来るそうです。橋をなぎ倒しながら・・・。これも怖い。
 
 最近印象に残った話 
 
沢村貞子さんと黒柳徹子さん
 
沢村さんのマネージャーだった山崎洋子さんのエッセイから
 
 黒柳さんを「チャック」(あまりにおしゃべりなので、口にチャックという意味)と愛称で呼んだ最後の人が沢村さん。黒柳さんからは、どこに出掛けても絵はがき、絵手紙、お土産が届き、病気になれば、あの忙しい人が毎日のように見舞う。
 
 沢村さん最期の日々、転居した横須賀のマンションで病臥する沢村さんを、黒柳さんは仕事を終えて深夜、自分で車を運転して訪れ、また午前3時、4時に車を運転して帰ってゆく・・・。
 
「日本、東京都、渋谷区、沢村貞子様ー住所録忘れました。郵便屋さん、よろしく御願いします。黒柳徹子」
こんな手紙が海外から届いたそうです。郵便屋さん、えらいっ。
 
「私は、この40年間、外国に行った時、必ず、2枚の絵はがきは出した。どんなに苦労しても出した。それが母さん(沢村さんのこと)と兄ちゃん(渥美清さんのこと)だった。この秋、仕事でニューヨークへ行き、絵葉書屋さんの前で、私は立ち止まった。唇を噛んだまま、しばらく動けなかった」(黒柳さん「小さい時から考えていたこと」)
 
 友人に手紙を書こうと思いました。
 
 
2011年9月5日
 
「つばくらの 迷ひおるらむ みちのくに 去年(こぞ)巣をかけし家を探して 」
 
 読売歌壇から 市川市 井原さん
 
 これは5月の投歌ですが、巣は見つかったのでしょうか。
 
 台風一過は晴天のはずなのに、鈍足のせいか二日経ってもすっきりしません。それよりも予想外の大雨による被害。
 
 心配なのは、下の息子の嫁さんのお母さん。ひとりで住んではる十津川村の実家は、昨日から連絡が取れなくなりました。電話も、携帯も通じない。台風が来た当日は電話が通じたのに・・・。その時は、道路が通れないので避難はせず、家に閉じ籠もっています、と言うてはりました。お家は吊り橋を見下ろす山の中腹と聞きましたので、洪水の影響はないでしょうが、土砂崩れが心配です。
 
 息子が県警に問い合わせたら、道路が寸断されているので、現地まで行けない、ヘリコプターを出す、ということでしたが、まだ連絡はありません。ニュースでは「現在4400人孤立」とありましたが、そのうちのひとりなのでしょうか。
 
 思い出すのは30数年前に故郷を襲った台風の時のこと。夕刻、父が怪我して意識不明で病院に運ばれたという電話一本が入っただけで、後は連絡がとれない。取るものも取りあえず、船に飛び乗り、翌朝今治着。病院の父(昏睡中)と付き添いの母と医者に会い、市内の親戚の家に寄って車を借りる。スーパーで食料品を買い込み、泥を被った道をのろのろ運転で故郷の町へ。
 
 村へ入る道は流されて川となり、手前の小学校のグランドに車を置いて、リュックをしょって山越えをしました。山道を這うように登り降りして実家の裏に辿り着く。勢いよく裏口を開けて入ると、今は亡き祖母(当時87才)が、居間で電話の前に正座しておりました。私の顔を見ると、なんともいえない安堵の笑顔を見せました。祖母は、前日からずっとその場にいて、飲まず食わずで鳴らない電話を待ち、父の無事を祈っていたのです。
 
 嫁さんのお母さんの無事を祈りつつ、停電で暗く不安な2日目の夜を迎えているであろう、十津川、五條、天川村、日高川村、田辺市他の人々のことを思います。
 
 
 
2011年9月3日
 
「 被曝しつつ 現場で作業する人の その名知らぬが 我は忘れじ 」 
 
 読売歌壇から 横浜市 田島さん
 
「じ」は打ち消しの意志。私は忘れません、その思いを持ち続けたい。
 
 世界陸上、男子1500メートルの決勝、金メダリストは最後の400メートルを52秒で走りきりました。100メートルを13秒の速度。すごいなあ。1500メートルは高校体育の授業での大きな課題でした。喘ぎ喘ぎ何度も必死で走った記憶、でも肉体的しんどさを忘れているのは、年月のせい(笑)、それとも人間の身体の不思議?精神的苦痛は残るのに、肉体的苦痛は消えるのでしょうか?見える傷跡は残っているのに・・・。すねの傷、歪んだ手の小指を見つつ思います。
 
 鈍足の大型台風12号は、大阪はたいしたことはなかったようですが、広範囲に土砂崩れ、洪水などの被害をもたらしています。
 四国の実家を心配したのですが、こちらも雨風ともに大丈夫だったようです。30数年前の大災害の教訓から、大きな護岸工事などがされ、村は要塞のようになっていて、家にいれば安全なのですが、むしろ、怖いのは人の動き。
 
 報道でも、舟を動かしに行った90才の老人が行方不明になっていました。故郷でも田圃の様子を見に行った老人が用水路で亡くなったことがあります。飛ばされた屋根瓦の修理に上がった老人が墜落死したことも・・・。
 
 気持ちはわかりますが、動かないこと。父には自重するように厳しく言ってあります(苦笑)。
 
 最近知った言葉
 
「27クラブ」 
 
 享年27才。この年齢で夭折したミュージシャン達をこう呼ぶのだそうです。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズ、そして聴いたことありませんが、名前だけは聞いたことがあるニルヴァーナのカート・コバーン・・・。カナダの新聞「グローブ・アンド・メール」によれば、50未満で亡くなったロック・ミュージシャン151人のうち、27才で亡くなった人が23人で圧倒的に1位。次は30才の9人だそうです。
 
 20代前半までに成功し、富と名声を得て、それからくるストレスもあって、ドラッグ、アルコール、セックス等に溺れ、30代になって落ち着く前に・・・というパターンがあるのかなあ。若くしての成功は怖い。
 
 先のイギリスのシンガー・ソングライター、エイミー・ワインハウスの27才での死は、大量飲酒を続けていた彼女が急に断酒したことによる「離脱症状」が原因らしい。医者からは段階的に減らすように言われたのに、彼女は「好きなだけ飲むか、全く飲まないかどちらかしか無理!」とすっぱり止める方を選んだという。それが150センチちょっとという小柄な彼女の身体に負担を与えた・・・。
 
 うーむ。飲兵衛の私にはよーくわかる(苦笑)。痛ましい。誰かが厳しく管理してあげたらよかったのに。仕方ないか・・・。でも、27才は若すぎる。これからいっぱい楽しめるのに。
 
 まだまだおいしいお酒を飲みたいので、今日は休肝日の60才の私です。
 
中国リポート 11
 
 青島ー爽やかな海風が吹いて、気温も25,6度で凌ぎやすく、その朝までの内陸の暑さがうそのようで、過ごしやすい街でした。その日は霧が多くて、高層ビルの上部を隠し、またそれが港町の雰囲気を盛り上げる。ガイドさんによると、中国の若者は、ほとんど北京か上海か海外を目指すが、山東省、特に青島の若者はこの街、この地方から出てゆきたがらないそうです。住み心地がいいのでしょうね。
 
 バスの運転手さんがこの街の出身で、いろいろ起伏に満ちた坂、綺麗な通りや海岸を走ってくれる。海岸には砂、岩、泥の3種があるそうですが、青島の海岸にはその3つが個々に存在しているとのこと。海水浴場と遊歩道、親水域といろいろ揃っています。
 
 また天然の良港で、海外に開かれた窓でもあります。水の豊かな山東省の野菜はここから日本にも沢山輸出されている。もちろん漁業も盛んで、尖閣諸島の事件のあの漁船も、ここの港から出航したのです。中国唯一の商船大学?もありました。
 
 ただ、時間の関係で、ドイツ風の美しい通りをじっくり見られなかったのが残念。歩きたかった。もちろん、本場の青島ビールはしっかりいただきました(笑)。
 
 山東省が大きくて、おまけに泰山に登るというハードな今回のプラン。このツアーは実験的なもので今後定着するかわかりませんが、個人的には青島を外して、済南市(泰山の北にある)の国際空港を使って、ゆっくり泰山に登り、曲阜と黄河近辺の古い町を巡るというのはどうか、と思います。
 
 ガイドさんに言うと、私もそう思うのですが、それでは地味で客が集まらないのです。特に、ご婦人方には泰山や孔子より青島でのお買い物が必須なのです。
 
 そうあなあ、山ガールや歴女が跋扈している現代です。個性的なツアーも、もっと望まれているのでは?
 
 バスで走る時間がもったいない旅でした。次回の海外旅行はヨーロッパが狙いですが、中国へゆくとしたら、西域か雲南省に行ってみたい。
 
 中国リポート、これで一応おしまいです。ご愛読感謝。
 
 ちなみに、私の携帯の万歩計による「シルクロード徒歩の旅」は、今日、タクラマカン砂漠へ入りました(笑)。ローマまであと2ヶ月余りです。
 
2011年9月2日
 
 台風が迫っています。ドーナツ型の大きな台風。雨量も多く、被害が心配です。これが過ぎれば本格的に秋が来るのでしょうか?
 
中国リポート 10
 
 曲阜を後に高速で一路、青島へ。緑豊かな田園風景が続きます。王義之や諸葛亮孔明の生地というところを過ぎるけれど、人家はほとんど見えない。
 
 ときどき非常ベルのようなものが運転席で鳴って、ガイドさんが携帯電話で対応している。あれは何?バスの運行を本社で管理していて、停車、休憩せよとの指示なんです。なるほど。
 
 休憩しつつ5時間近く走って、海が、東シナ海が見えてきました。入り江を横切る数10キロの長い橋にかかる。こんな大工事、大建築、何時造ったん?部分ごとに取りかかって数年で仕上げたのです。この間開通したばかりです。
 
 そのせいか、観光客が多く、停車禁止の橋の上に停まって、記念写真を撮っている人も多く、危ない。やっと青島市内へ。
 
 この街はかつてドイツが開いたところで、赤い屋根、クリーム色の壁の建物が海岸線に並んで美しい。街路樹は泰山木。でもその背後、周囲にものすごい高層ビルが林立している。上海と似ていますが、あちらはイギリス、フランスなど多国籍の租界の雰囲気があり、また河岸の街、こちらはドイツ一色で海岸の街。海際には海水浴場もあり、松が多くリゾート地の風情もあります。風が強く吹いていて涼しい。
 
 最近こころに残った言葉
 
デール・カーネギーの著作から
 
「人間は、誰でも周囲の人に認められたいと思っている。自分の真価を認めて欲しいのだ。小さいながらも、自分の世界では自分が重要な存在だと感じたいのだ。見え透いたお世辞は聞きたくないが、心からの賞賛には飢えているのだ」
 
 わかります。気になっているのは、最近、実家の母がしきりに「自分はもう役に立たない存在だ」と嘆くこと。人の役に立つことを身上にしてきた母には、今の足が不自由で、みんなの力を借りる立場が、歯がゆくてならないのでしょう。今まで充分人に尽くしてきたし、今でもみんなの相談に乗って役に立っているじゃないか、と言っても、納得しません。素直に甘えることも大事だと思うのですが、難しい。
 
 
2011年9月1日
 
「 イヤホンを外すと聞こえる街の音 ロックに飽きたら 喧噪もよい 」
 
 朝日歌壇から 川崎市 多田さん
 
 そうです。あんな大音量でいつも音楽を聴いていて、余計な御節介でしょうが、脳に影響はないのかと心配もします。クラクションも聞こえないし、危険でもありますね。
 でも、実は今、欲しいもののひとつはヘッドホーンステレオなのです。今まで持ってなかったのかと言われますが、そうです、あえて持っていませんでした。ところが最近、音楽をもっと聴きたい(普段はほとんど聴く機会なし)と思いだしたのです。うーむ、どうしょう。
 
 今朝の綺麗だったという虹を見逃しました。残念。おまけに歩いていて、もう少しで職場というところで急な雨に遭う。着替えを用意していて正解でした。
 
 今日は期末考査の初日。私の担当科目もあったので、持ち帰って採点。さっき仕上がりました。
 
 帰りに久々、阿倍野界隈を通ったら、近鉄のビルがますます伸びている。威圧感あり。
 
 最近、正式名が決定発表されました。「あべのハルカス」。「晴るかす」(心がはればれとする)という意味の古語から来ているのだそうです。いつ募集したん?と思ったら、公募はせず、社内募集したらしい。いい名じゃないですか?
 
 それで、再来年完成するビルに入るホテルは、なんと「マリオット」。早速、上の息子に電話して抗議。
 
 「当然シェラトンや、と言うたのはお前やろ?みんなにウソ教えてもうたわ!おまけに、お前とこの関連ホテルやんけ!」
 
「お父さん、ゴメン!ほんと、僕らも、つい最近まで知らんかったや、トップの隠密交渉だったみたいで、スタッフも驚いてるんや。」
 
 たしかに、阪神・阪急系統と思われていたマリオット(日本では現在、名古屋、沖縄にあり)の京阪神初進出が近鉄との提携とは・・・ホテル戦国時代で、なんでもありになって来ているのですね。
 
 息子の勤務するホテルも京都や沖縄へ出店するようで、新婚気分に浸っている場合じゃないようです(笑)。
 
 最近テレビはスポーツかドキュメンタリーばかり。ドラマを本当に見なくなりました。NHKの向田邦子さんの名作「胡桃の部屋」のリメイクは期待して見たのにイマイチ。丁寧な作り、キャストも熱演です。でも、「昭和の匂い」を出そうと頑張りすぎているのではないでしょうか?向田さんと「昭和」は切り離せませんが、若いキャストにはしんどい。無理しないで人間ドラマに徹すればいいと思うのですが・・・。
 
 で、今日見たドキュメント。「スベロニアの絶景温泉」。スベロニアはユーゴスラビアから独立した四国ほどの小国ですが、アドリア海の畔、アルプスの山麓の美しい国のようです。内陸部の首都リュブリャナ(知らなかったこの名前)、そして港町ピラン、どちらも美しい。柿色の屋根と白い壁、かつてのジプリの映画の画面そのままです。豊かな温泉を持つ国なので、ああちこちに保養施設も多い。私の「行きたい国」のリスト上位に上がってきました。
 
中国リポート 9
 
 曲阜は孔子縁の、というより孔子関連で成り立っている街。人口の3分の1に当たる6万人?が孔子の子孫とか。全世界にはその何倍もの子孫が散らばっている。但し直系は共産党とぶつかって、台湾に移住しているという(そういえば、台北にも孔子廟がありました)。
 
 ホテルから歩いて5分ほどで曲阜三孔(孔府、孔廟、孔林)と言われる関係施設(これがとてつもなく広い)入り口に着くのですが、そこまで参道にはものすごい数の出店。一応チェックしておいて、帰りに教科への土産の論語が書かれた扇を11本買いました。
 
 入り口に上等の服を着た上品な老人が笑顔で待ってはる。この方が分家筋の長の方だそうで、観光客と記念撮影そしてサイン。これが仕事?
 
 入場して、また遙かな参道を歩き、その上でバスや人力車(その客引きがすごい)を乗り継いでやっと孔府(直系に近い子孫が暮らす建物)へ。
 
 大きな木造建築(そのひとつ大成殿は中国3大木造建築のひとつー残りのふたつは北京故宮の太和殿ーこれは見ましたー岱廟の正殿ー前日登った泰山の麓にあったのに時間の関係で見られなかった、3つを制覇したかったのに、実に残念)が建ち並び、広く薄暗い邸内、数々の部屋の公開されている一部を犇めく観光客と覗き込む。とにかく人が多く、その喧噪と、先を争うパワーに辟易しました。
 
 隣の孔林は巨大な孔子一族の為の墓地公園。これも専用バスに乗って一周したのですが、それでも小一時間掛かりました。林の中に墳墓が点在している。孔子の子孫であれば、だれでもここに墓を持てるらしい。もちろん、新しいものもある。
 孔子とその子や孫、高弟たちの墓は最深部の大きな杉木立の中に。でも、案外小さくて(径20メートルくらい)、あっさりした芝に覆われた古墳(円墳)でした。文化大革命の頃にいろいろあったのかも知れません。
 
 木陰だけは涼しいけれど、盆地のせいもあってか、どこでも35度くらいで蒸し暑く、シャツはびしょびしょ。
 
 ツアーの一行、疲れ果ててバスへ。これから5時間、ハイウエィを走って青島へ向かうのです。




雑記帳バックナンバー表へ